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自作小説 秘 天狗追録・匡政の章

  月日は流れ、その年の冬。                                                       1 2 (3) 
天狗の里は今日も晴れていたが、雪雲が漂う寒空になっていた。
 右鳴と左鳴は、木枯しが吹く中、門の屋根の上に立っていた。
 左鳴は空の彼方を眺めながら言う。
「今年の冬は少々暖かい。北風もなんだか生温い。暖冬だな」
 右鳴も空の彼方を眺めながら言う。
「いや、今年の冬も十分寒いですよ。北風なんか、私の羽毛を突き抜けて刺すように冷たい」
 左鳴はにやりとする。
「右鳴、門番としての修行が足りぬ証拠じゃ」
 右鳴は空の黒い点を見つけて言う。
「左鳴は中年だから、体の脂肪が多くて寒さが分からないのでは」
 左鳴も空の黒い点を見つけると羽団扇を掴んで言う。
「わしはまだ二十九だ。中年ではない。それにこれは脂肪ではなく、筋肉だ」
 腕の力瘤(ちからこぶ)を見せると、羽団扇で風の渦を作った。
「貞羽、右鳴に一発食らわせてやれ。手加減するな」
「はっ」
 羽団扇で右鳴をあおぐと屋根から飛び降りた。
 右鳴は飛んできた風の渦を羽団扇で避ける。
「一発どころか、三発もある。葛羽の羽が乱れたらどうするんですか」
 風の渦を避けたあと、自分の羽団扇を確認すると、右鳴も屋根から飛び降りた。
 お庭番の烏天狗は門の前に降り立つと抱えていた早紀をおろした。
 右鳴と左鳴は同時に言う。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
 ベージュのコートに白いマフラーをした早紀は右鳴と左鳴を見上げた。
「今日、母上がクリスマスのケーキ焼くって言うてたから、出来たら右鳴と左鳴にも持って行くね」
「私達の分もありますかね」
 右鳴の言葉に早紀は頷きながら言う。
「うん。右鳴と左鳴の分は早紀が作るから」
「え! あの・・・」
 何かを言おうとした右鳴の嘴を左鳴は掴んだ。抵抗する右鳴を片手で押えながら左鳴は穏
やかな表情を見せて言う。
「早紀様のケーキを楽しみにしてお待ちしております」
「うん、待っててね」
 そう言うと早紀は、右鳴の嘴を掴んでいる左鳴の腕の下を潜ってから門を通って行く。
 右鳴は両手で左鳴の指と腕を掴んで対抗するが左鳴の腕一本の力に勝つ事が出来ず、左鳴
はにやにやしながら言った。
「わしは式神は使えんが体術は相当なものだぞ。これで脂肪ではなく筋肉である事が証明出
来たかな」
 嘴を掴んでいる左鳴の指を解こうとして力んでいる右鳴の顔を見て、左鳴は低い声で笑い
ながら手を放した。
 右鳴は自由になった口で呼吸をしながら言う。
「そんな事よりも幼稚園児が作ったケーキを私達は食べなければならないのですよ」
 左鳴は閉めるために羽団扇で扉をあおぐ。
「仕方ないであろう。お前が早紀様を必要以上にかわいがるから、こういう事になるんだ。
早紀様が泣かぬように、何があってもケーキは残さず食えよ」
「食べれる味であればよいですが……」
 右鳴は悄々たる姿で羽団扇をあおいだ。

          ◇

 その頃、千鼓は自宅でクリスマスツリーの飾り付けをしていた。
 冬の時期は草木が育たないため、祖母も鞍馬山へ山菜摘みに行かず家のコタツの中でのん
びりとお茶を飲んでいる。
「お婆ちゃん、飾り、これでいい?」
「うんうん、綺麗だねぇ」
 祖母は微笑みながら蜜柑に手を伸ばす。
 千鼓の母親もコタツの上で蜜柑の皮を剥きながら言った。
「千鼓も一休みしてお蜜柑を食べたら?」
「はぁい」
 千鼓もコタツの中に入り蜜柑に手を伸ばす。皮を剥きながらクリスマスツリーを眺めてい
ると、部屋にドアホンの音が響いた。
「あら、お客さんやわ。誰やろ」
 母親は蜜柑を置いて玄関へ向う。暫くして母親は戻ってきた。
「千鼓の同級生やて。遊ぶ約束してたん?」
「ううん、してない。誰やろ」
 千鼓がコタツから出て玄関へ行くと、見たことのない少年が手提げ袋を提げて立っていた。
紺のダウンジャケットとキナリの綿の長ズボンにブルーのマフラー を巻いている。
 警戒して様子をうかがう千鼓の表情を見て、少年は偉そうな口調で言った。
「よう、千鼓。久し振りやな」
 その言い方で、千鼓はその少年が誰なのか気付いた。
「天狗様!」
「婆に用があって来た。おるか?」
「いるけど。今日は天狗様やない。なんでなん?」
「ん? まあ確かにわしはまだ見習いだが……」
 千鼓は匡政の胸辺りを指さした。
「違う。服」
 匡政は自分の服装を見た。
「この服か。天狗の事は内緒やからな。人界にいる時はこういう服なんや」
 千鼓の母親が玄関にやって来た。
「こんな所で話しとらんで、上がってもらいなさい。どうもすいませんね」
 母親は匡政に軽く会釈する。
 匡政は絵に描いた子狐のように目を細めた笑みを浮かべて言う。
「いえ、用事で来ただけなのでお構いなく」
「なんてお利口なのかしら。遠慮しなくていいのよ。さあ上がって、上がって」
 二人の会話を聞いて、千鼓は表情を歪める。
「二人共よそ行き言葉を使って気色悪い」
「千鼓、突っ立ってないでお客さんを中まで案内しなさい」
「はぁい」
 千鼓は母親に急かされて匡政を呼んだ。
「天狗様、こっち」
「天狗様?」
 母親は少し驚いた表情をして千鼓と匡政を交互に見る。
 千鼓は慌てて言い替えた。
「違う違う天狗様じゃない。天ちゃんだよ。天ちゃん、こっち。早く上がって」
「あ、うん。お邪魔します」
 天狗と呼ばれて玄関で硬直している匡政の手を掴むと中へ連れ込んだ。祖母のいる部屋へ
連れて行く。
「お婆ちゃん」
 祖母は湯呑を持ったまま顔を上げる。
「おや」
「婆、久し振りやな。元気にしとったか?」
「はい、お蔭様でなんとかやっております」
 匡政は祖母の隣に座ると早速甘えだした。
「わしは婆に会えなくて淋しかったぞ」
 祖母は匡政のお茶を入れながら言う。
「修行は順調ですか?」
「今は炎の操り方を練習しとる」
 匡政は掌の上に小さい炎を出して見せた。
「まあ」
 祖母の感心した表情を確認すると、匡政は嬉しそうな顔をする。そしてすぐに母親が来る
気配を感じて掌の炎を握りこむようにして消した。
 匡政が感じた通り母親が茶菓子を持ってやって来た。
「よかったら食べてね」
菓子籠の中にポテトチップが入っている。
 匡政は急に姿勢を良くするとポテトチップに手を伸ばした。
「いただきます」
 品良く食べる匡政を見て母親は褒める。
「礼儀正しいのね」
「いえ、そんなことは……。ぼくは親にしかられてばかりで……」
 匡政は少し暗い表情をする。
 これで会話が無くなり暗い雰囲気が漂ったので、千鼓は間を取繕うようにゲームボードを取り出した。
「皆でゲームしよ」
 母親は席を立つ。
「私は鍋を火にかけてるから遠慮するわ。ゆっくりしてってね」
 祖母もお茶を啜りながら言う。
「私も年寄りだから遠慮するわね」
 千鼓は人数が減ってつまらなそうにする。
「二人だけになってもうた」
 母親は席を外し、いつもの調子に戻った匡政は偉そうに言った。
「わしが遊び相手やとイヤなんか?」
「別にイヤじゃないけど……。二人だったらオセロくらしかあらへん」
「うむ、よいぞ」
 千鼓はゲームボードを片付けてオセロゲームの箱を取り出した。
「さっきまでぼくって言って気取ってたくせに……」
「なんか言ったか?」
「いいえ」
 千鼓が口を尖らせてオセロの用意をしていると、匡政は手提げ袋から大きな紙袋を出した。
「婆、愛宕山の爺から膝の薬草だ。あと手紙も頼まれた。きっとラブレターじゃぞ」
 帯状の和紙に毛筆で書かれた昔ながらの手紙を差し出す。
 見ると手紙の内容は匡政の言う通り口説き文句が書き詰められていた。
 祖母は二、三行目を通したところで溜息をつく。
「あの人は全然成長してないわね。年寄りらしく落ち着いたらよいものを」
「爺は婆の事が忘れられんのじゃ。一緒に暮らしてやったらどうや?」
 そう、匡政は愛宕山の大天狗の使いで来たのだ。本来は祖母が外に出た時にこっそり薬草を
渡すのだが、千鼓と友達になったこともあり、ついでに遊びに来た のだった。
 千鼓がオセロの準備を終えると先攻後攻を決める間も無く、匡政は黒の土師器を置いて挟
んだ白を裏返して黒にした。
「ちょっと先攻後攻決める前に始めんといてよ」
 千鼓の言葉に匡政はきょとんとした表情をする。
「女子は皆白が好きだと言うが、千鼓は黒が好きなのか。ならば黒にいたせ。わしは黒でも
白でもよい」
 オセロを元の始まりの位置に戻しながら、また祖母に話しかける。
「婆、どうじゃ?」
「ここまで年を取りますと、一緒に暮らすのも重労働になりますからね」
「身の回りの事は侍女がするから婆はなんもせんでええと思うが」
「それに家族と離れて暮らすのはとても淋しいんですよ」
「そうか……。ならば、爺が愛宕山を下りる。というのはどうじゃ?」
 匡政は手提げ袋から羽団扇を取り出して、考えながら自分の顔をあおぐ。法衣を着ていな
い姿に羽団扇はえらく不釣合に見える。
「人界の私個人の事で大天狗様が動くような事があってはなりません。下山しても一緒には
暮らしません。とそうお伝え下さい」
 祖母は匡政に言ったが、子供の立場で断りの伝言を頼むのは大変だと思い、
「伝言では説得力がないかもしれないわね。久し振りに手紙で返事をしようかしら」
 便箋を取りに行くために席を立った。
 部屋を出て行く祖母を見送りながら匡政は言う。
「好きおうているなら一緒に暮らせばよいものを。爺には財産もあるゆえ、人界で一緒に暮
らしても生活には困らぬと思うが。千鼓、お前はどう思う?」
 見ると、放っておかれた千鼓はオセロの碁盤の前でしかめっ面になっていた。
「匡政様、千鼓殿は不機嫌そうです」
 央羽のあとに匡政はたじろぎながら言った。
「それはいつもの事じゃ」
 こうして匡政は山菜が生える時期は鞍馬山で、そうでない時期は千鼓を出汁にして祖母に
薬草を届けるようになった。その頃の二人は愛宕山の大天狗と祖母の 今後の関係が気になって
いて、お互いの思いには全く無頓着であった。

          ◇

 二人が初めて出会ってから四年目の春。
 天狗の里は今日も晴れていた。筋雲の下を時折り薄雲が流れている。
 右鳴と左鳴は、若葉が風で擦れる音を聞きながら、門の屋根の上に立っていた。
 右鳴は背が伸びて体格も逞しくなっている。今年の誕生日が来れば二十歳になる。相変わ
らず侍女達の憧れの的である彼は大人びた風貌以外は昔と変わらずで 空の彼方を眺めながら
言った。
「左鳴、昨日のお見合いはどうだった?」
「それは聞くな」
 左鳴は今年で三十二歳になる。日々の鍛錬を欠かさないため逞しい体に衰えたところは見
えず、琵琶の免許皆伝という繊細な一面を持つ彼は筋肉隆々の腕を胸 の前で組んだ。
 右鳴は空の黒い点を見つけて言った。
「素顔を見せた時点で断られたか。いや、今回は毛むくじゃらの腕が原因か?」
 左鳴も空の黒い点を見つけると羽団扇を掴んで言った。
「それは言うな」
 右鳴と左鳴は同時に屋根から飛び降りると、扉の前で近づいてくる黒い点を待った。
 黒い点は早紀を抱えたお庭番の烏天狗である。あっという間に門の上に到着すると、翼を
大きく羽ばたいて扉の前に降り立った。
 烏天狗の黒い体から茶色の革靴と白い靴下が現れて石畳に足をつけた。
 右鳴と左鳴は同時に言う。
「お帰りなさいませ」
 私立小学校の制服を着た早紀は三年生。綺麗な面差しが手伝ってとてもかわいらしく見え
る。お庭番から離れると右鳴と左鳴を交互に見上げながら言った。
「ただいま」
 羽団扇で扉を開けている右鳴と左鳴を黙って見ていたが、左鳴と目が合うと憂え顔を見せ
て口を開いた。
「左鳴、昨日のお見合いはどうだったの?」
 小学生の早紀にまで問われ、左鳴は言葉を失い羽団扇を扉に向けたまま硬直する。
 早紀の横で右鳴は笑いを堪えながら代わりに答えた。
「今回もやはり、いつもの如く」
「そうなん」
「強面の顔が原因か、毛むくじゃらの体が原因か、気の利いた台詞が言えない口が原因か。
左鳴に問うていたところです」
 左鳴は羽団扇を右鳴に向ける。
「右鳴、先ほどはそこまで問うてはおらなんだぞ」
「それで、結局は何が原因で断られたの?」
 早紀にも問われて、左鳴はまた硬直して大人しくなった。羽団扇がゆっくりと下がり右鳴
の顔から左鳴の腰に移動する。
「右鳴が申した事、全てが原因と思われます」
 早紀は笑顔を作った。
「そう。なら、また母上がお写真を用意するわね。左鳴、あまり落ち込んではダメよ」
「……はい………」
 左鳴の返事を聞くと早紀は門を潜って中に入った。お庭番も笑いを堪えながら後に続く。
 右鳴は二人が門を潜り終えたのを確認してから羽団扇で扉をあおいだ。
「左鳴は家族思いの優しいマイホームパパだと思うが、世の女達は表面ばかり見て内面は見
ないのですね」
 左鳴は不機嫌な表情で扉をあおぎながら嫌味を含めて低い声で言った。
「お前の片思いの女性のように、美形より内面重視の女性もおるのだ」
 遊び慣れている右鳴は嫌味を言われても硬直せず怯むこともない。
「確かにそうですね。彼女は私の事を悲しいくらいに知り尽くしておりますから、左鳴を見
習えとよく私に言います」
「わしの事を知っておるのか。お前の片思いの相手は一体誰だ?」
「それは口が裂けても言えません」
「わしがお前の思い人を奪ったりせんことは分かっておろう。誰か教えろ」
「イヤです。私にも嫉妬心はありますからね。横取りしないと分かっていても教えません。葛羽、参るぞ」
 そう言うと、右鳴は再三の追及を恐れ羽団扇で風を起して飛んで行ってしまった。
 左鳴は閉まった扉にもたれた。
「貞羽、右鳴の片思いの相手を知っておるか?」
「いいえ、全く」
「幼い時からの片思いらしいが、一体誰だ……」
「さあ、誰も右鳴様の思い人を見た者はおりません」
「女遊びが絶えんのは、報われぬ思いのせいなんだろうな」
 左鳴は羽団扇の貞羽が胸に当るようにゆっくりとあおいだ。

          ◇

 千鼓は相変わらず鞍馬山に山菜を摘みに来ていた。小学四年生になった千鼓は祖母の付き
添いなしで山菜を摘むことが多くなり、その祖母に代わり一緒に山菜 を摘むようになったの
は匡政だった。
「千鼓、まだ山菜を摘むんか?」
 つまらなそうに山菜を摘んでいるところを見ると、祖母の代わりとしては程遠い存在である。
「うん、明日は摘みに来れへんで、明日の分の山菜を摘むまで遊べへんよ」
「明日は空手稽古の日か……。明日の山菜くらいわしが届けてやる。なあ、央羽」
「それくらいなら、匡政様の神通力を使えばすぐです」
 匡政は羽団扇で風を起こすと、飛び跳ねて千鼓の隣へ着地する。千鼓の頭で揺れているお
下げを軽く引っ張った。
「なあ、わしと遊ぼう」
「あかん」
 千鼓は引っ張られて体が少し傾くが、体勢を元に戻して山菜を摘み続ける。
「神通力に頼っても楽なんは少しの間だけ。天狗様はいつも一緒におるんやないで、人界で
暮らすあたしらは天狗様の力に頼ったらあかんねん」
 匡政は千鼓のお下げの髪飾りを触りながら言った。
「千鼓が頼ってんやない。わしが遊びたくて使うだけや」
「あかんって言ったら、あかん」
 千鼓が言っている傍で匡政は立ち上がると羽団扇を握った。
「央羽、他の草を混ぜるなよ」
「お任せを」
 茂っている草から山菜だけを刈り取るために、匡政は羽団扇を大きくあおいだり小さく
あおいだりして微妙に調節しながら天狗風を起こした。さながら白拍子 のように舞う匡政の姿
はちょっとかわいい。
「あかんて言うてるのに」
 匡政は籠の中に山菜を入れるとしかめっ面をしている千鼓に微笑んだ。
「もうわしが明日の分まで摘んだ」
 匡政の平和な笑顔を見ていると怒る気も失せてくる。
「すぐ神通力を使うんやから」
 千鼓は手にあった山菜を籠に入れると呆れた表情で立ち上がった。
「わしは天狗やからな」
「まだ天狗見習いやん」
 匡政は羽団扇を腰に挿すと身構えた。
「さあ千鼓、遊びを始めるぞ」
 千鼓も身構える。
「始めるってね・・・。空手は遊びやないんやけど」
 本当は、鬼熊に追われた経験から千鼓は強くなりたいと思い習い始めた空手だったが、今
では匡政の遊び道具の一つになっていた。
「でも天狗の修行より面白いぞ」
 二人は間合いをとってお互いの様子をうかがう。
「空手はね、心と体を鍛える武道であって、遊びやないの」
 千鼓は拳を繰り出し次に蹴り上げるが、匡政は軽やかに交わす。向ってくる千鼓の手や足
を次々と交わして隙を見つけると、
「隙あり」
 一気に踏み込んで千鼓の拳を受け流して懐に入り込み、二本の指を千鼓の鼻の穴に突っ込んだ。
「勝負あったな」
 匡政は有頂天になって喜ぶが、千鼓は顔を振って荒い鼻息と共に匡政の指を噴き出すと腕
を振り上げて怒った。
「それは反則や」
 こうなると空手どころではない。
「だから遊びやと最初に言うたやないか」
 飛び跳ねて逃げ出す匡政を、千鼓は息急き切って追いかける。
「これのどこが遊びなん。すぐあたしをからかう」
 千鼓は追いついて匡政を捕まえた。本来いくら天狗見習いでもただの人間である千鼓に匡
政を捕まえる事はできない。匡政が加減してゆっくりと逃げていたから 捕まえることが出来
るのだ。
「捕まってもうた」
 匡政は振り返るとそのまま千鼓に抱きついた。
「ちょっと抱きつかんといて」
 千鼓の背中に手を回して離れない。
「千鼓も婆と同じで柔らかい」
「結局これが目的なんや。お婆ちゃんがいないとあたしを身代わりにするんやから」
 そしていつもの匡政の甘えが始まる。
「天狗の修行なんて大嫌いや」
 匡政に抱きつかれると必ず甘い香りがする。匡政の家に生えている白檀という樹木で、匡
政の家では香として使われているらしい。
「天狗になれんでもええ。学校も進学校でなくてええ。無力でもええねん。千鼓のように人
界の者として暮らしたい」
 千鼓は祖母に言われていることもあって、祖母の真似をしていつもの台詞を言う。
「天ちゃんは天狗様なんやから人界の者になれへんよ」
「学校にいる時は人界のもんと変わらへんで」
 確かに山菜を取りに行かない冬、匡政はごく普通の少年の姿で千鼓の家に祖母の膝の薬草を
届けにやってくる。服装は英国の上流階級の少年のようにきちっと していて、千鼓の母親
の前ではとても礼儀正しく敬語が混ざった標準語で話すのだ。
「神通力さえ使わなければ人界のもんと変わらへんのや。つまらん修行なんかしとうない。
天狗になんかならんでもええねん」
 それなのにどうして、祖母や千鼓の前だと、ここまで甘えん坊になってしまうのだろうか。
 匡政は千鼓の肩に顎を乗せて目の前で揺れるお下げの髪飾りを見ながら涙ぐむ。
「父上はいっつもわしに厳しい事を言う」
「天ちゃんがどんなけ天狗をイヤがっても、天ちゃんは天狗様なんやから、ちゃんと修行し
て力の使い方を覚えんと、力の使い方を間違える悪い天狗様になって しまうで」
「神通力なんか使えんでもええねん。大きゅうなったら、わしも婆のように静かに人界で暮
らす」
 天狗の修行から逃げようとする匡政に言う言葉は決まっている。
「だったら、お婆ちゃんもあたしもここには来うへんからね。膝の薬だって受け取らないっ
てお婆ちゃん言うと思うで」
「そんなんはイヤじゃ」
「それにあたしだって、悪い天狗になった天ちゃんになんて会いたいと思わへんし」
「イヤじゃ、イヤじゃ、わしは婆も千鼓も大好きや。わしから離れんといてくれ」
 千鼓は祖母の真似をしてあやすために匡政の背中をさすった。
「天ちゃん頑張って修行しい。今までだって頑張れたんやから、これからも頑張れるって」
 匡政は気が済んだのか千鼓から離れた。涙目で鼻を啜る。
「いくら術を覚えても、父上は全然優しくしてくれへん」
「あたしだって、空手の稽古が厳しくって打身が出来て痛いけど頑張ってるんやから、天ち
ゃんも頑張りいよ」
「千鼓は本当に空手の稽古頑張るよな。千鼓から泣き言一度も聞いたことあらへん」
 褒められて照れたのか、千鼓は匡政から視線を外して風に揺れる草を見る。
「前に天ちゃんが鬼熊に襲われて大怪我したことあったやん。あん時あたし傍に居たのに逃
げることしか出来なくって……。もうあんなのはイヤなん。天狗様み たいに神通力は使えん
けど、なんか強くなれるもんを覚えたいんよ」
 凛とした姿で前向きな考えの千鼓を、匡政は眩しそうに見る。
「千鼓が天狗として生まれれば良かったな。千鼓やったらきっと強くて善い天狗になれたと思う」
「イヤや。天狗として生まれたら、天ちゃんに会えんかもしれんやん」
 そう返した千鼓はまだ自分の心情に気付いてはいない。
 言われたほうの匡政は頬を赤らめて頷いた。
「そっ、……そうやな。千鼓に会えんのはわしもイヤや」
 匡政は落ち着きがなくなって千鼓から離れると腕を振ってみたり、一本歯下駄で地面を蹴
ったりして独り遊びをしだした。
 それが千鼓には匡政が暇を持て余しているように見えて、千鼓は空手の構えをとると匡政を呼んだ。
「天ちゃん、明日練習試合があって稽古したいから、また相手をしてくれへん?」
 呼ばれた匡政は嬉しそうに笑顔で返事をする。
「うん、ええよ。わしが相手をするんやで、明日の練習試合は絶対に負けたらあかんで」
 間合いをとると、匡政は軽い身のこなしで受けて流しながら千鼓の空手の稽古につき合った。
 匡政と千鼓の仲は、これ以上の進展がないまま時は流れ。

          ◇

 その年の夏。
 天狗の里はイヤになるほど暑い日差しがふりそそいでいた。
 右鳴と左鳴は、蒸し暑い中、門の内側に出来たわずかな日陰の中に立っていた。
 右鳴は暑さで意識が朦朧としているのか、虚ろな眼差しで空の彼方を眺めながら言った。
「今年は雨が少なくて、人界では水不足だそうです」
 左鳴は暑さにも平気なようで、羽団扇で自分自身をゆっくりとあおぎながら空の彼方を眺
めながら言った。
「水不足が酷くなったら、定孝様が人界に下りて雨を降らすであろう」
「それは鞍馬の水源が枯れたらの話では。それに定孝様が雨を降らせば雷も一緒に落ちますよ」
「当然雷も落ちるが、人界には避雷針というものが雷を招き寄せるゆえ、人や物には落ちん」
 右鳴は懐から水筒を出すと口に含んだ。
「その避雷針、里にも欲しいな」
「でかくて太いぞ。どこに建てるんだ?」
「それは……」
 右鳴は少し考えてから言った。
「里には避雷針より強力な頼子様がいらっしゃるから別にいらんか……」
 左鳴は頷きそうになったが、それをぐっと堪えて言った。
「避雷針と頼子様の話は他言してはならぬぞ」

          ◇

 頼子はくしゃみをした。
 早紀は頼子の顔を覗き込む。
「母上、大丈夫?」
「ええ、誰かが私の噂をしているのかしら」
 頼子は一息つくとカキ氷機のハンドルに手をかける。
 早紀は急いで手を伸ばしてカキ氷機を支える。今、学生にとっては夏休み。早紀は母頼子
の手伝いをしていた。
「いくわよ」
「うん」
 頼子がハンドルを回すと、氷の削れる音と共に早紀の目の前にカキ氷が降り積る。
 早紀が器に山盛りになったカキ氷の形を整えると、頼子が氷用のシロップを持ってきた。
「右鳴はレモンでよかったかしら?」
「うん。左鳴はシロップ無し」
 頼子はカキ氷にレモンシロップをかけながら言う。
「シロップ無しなんて左鳴は変わってるわね」
「早紀もシロップ無し好き。だって氷が美味しいもん」
「あら、いつもシロップかけて食べるじゃない」
「シロップかけるのも好き」
「どっちなのよ」
 早紀は笑顔で見上げる。
 頼子も微笑みながら次に苺シロップを手に取る。
「父上は苺だったわね」
「うん。父上ミルクいるかな?」
「ミルクは持って行って、父上が欲しいって言ったらかけてあげましょう」
「うん」
 頼子が三つのカキ氷をお盆に乗せる。
 早紀はシロップを片付けながら言った。
「右鳴と左鳴のは早紀が持って行きたい……。ダメ?」
「別にいいわよ」
 頼子は別のお盆を取り出してカキ氷を分けると、早紀に右鳴と左鳴のカキ氷を渡した。
「落とさないように気をつけてね」
「うん」
 早紀はお盆を受け取ると大事そうにカキ氷を見てバランスを取りながら静かに歩き出す。
「本当に早っちゃんは門番贔屓ね」
 落とさないように緊張して歩く早紀に返事をする余裕は無い。
 頼子は暫くの間早紀を見送ってから台所をあとにした。

          ◇

 今も門の内側に出来た日陰スペースは狭い。影は片方に寄っているため、右鳴と左鳴は門
の右側に寄って立っていた。
 右鳴は自分より太い腕の左鳴を見てうんざりとして言った。
「並んで立つのなら若くてかわいい女でないと」
 左鳴は自分より華奢な右鳴を見て見下し気味に言った。
「お前は男の中ではかわいいほうだと思うが」
 右鳴は気持ち悪がって左鳴と距離をとって自分が守護する右扉に縋りつく。
「そういう冗談は勘弁して下さいよ。私はあっちの気はありませんから」
左鳴は憮然とすると羽団扇で胸元をあおぎながら右鳴から顔を背けた。
「もっと鍛えろという意味だ。意味を取り違えるな。こんな蒸し暑い時に変な事を考えよって」
 苛立って左鳴は溜息をついていたが、小さな気配を感じて羽団扇の動きを止める。
 右鳴も小さい気配に気付き右扉に寄り添ったまま意識を集中させる。
 左鳴は小さい気配が門に近づいてくることを感じてクスリと笑った。
「右鳴が望んでいた若くてかわいい女性のお越しだ」
「若過ぎる気がしますが」
 右鳴はなぜかダメージを食らいしょ気ている。
 左鳴が見ている屋敷の影から現れたのはお盆を持った早紀だった。
 早紀は真顔でお盆の上のカキ氷を見ながら短い足を動かして歩いている。前を見て歩いて
いないのだ。
 左鳴は音も無く飛び立つと早紀の隣に舞い降りた。一緒に歩きながら声をかける。
「早紀様、私がお持ち致します」
 お盆が手から離れて早紀はやっと左鳴が隣にいる事に気がついた。
「左鳴」
 左鳴は翼広げて早紀のために日陰を作る。
「私達のカキ氷ですよね?」
 早紀はお盆を持っている左鳴の手の甲に生えている毛を見ながら返事をする。
「うん」
「有難うございます。頂きます」
 黒い翼を広げて飛び立とうとした左鳴の法衣に早紀は掴まった。
「早紀も一緒に」
 左鳴は翼を広げたまま早紀を見る。
「門は屋敷の中よりも蒸し暑いですよ」
「暑いの平気。お願い、ちょっとだけ」
 早紀の願いを断れば、早紀はまた悲しい表情をするだろう。過去のトラウマが働いた左鳴
は早紀を連れて行く事にした。
「ちょっとだけですよ」
 そう言うと、左鳴は片腕で軽々と早紀を抱きかかえる。
「ちゃんと掴まっていて下さいね」
「うん」
 早紀は左鳴の肩に手を回す。
「左鳴から匂いがする。お香?」
 左鳴は飛び立った。
「はい、竜脳という香です」
「ええ匂い」
 左鳴が門に到着すると、右扉に寄りかかっていた右鳴は体勢を直し背筋を伸ばして二人を迎えた。
「左鳴、何故(なにゆえ)このような蒸し暑い場所に早紀様をお連れしたのだ?」
 門番の仕事口調で話す右鳴の顔は引き締まっている。
 左鳴はお盆を右鳴に渡すと早紀に言った。
「右鳴がああ言っておりますので、早紀様、このまま戻りましょう」
「イヤや」
 早紀は体を伸ばして左鳴の腕から飛び降りると泣きそうな表情をして今度は右鳴の法衣を掴んだ。
「右鳴、ちょっとだけ、お願い」
 右鳴はウエイターのように背筋を伸ばしてお盆を持ったまま早紀を見下ろす。
「仕様がないですね。ちょっとだけですよ」
 結局、右鳴と左鳴は早紀を間に挟んで門の日陰でカキ氷を食べる事になった。

          ◇

 同じ頃。
千鼓は他の空手道場との練習試合のため集団合宿に参加していた。
同じ年齢の列に並んでお下げ髪を揺らしながら空手の型を通している姿は小さいながらも
勇ましい。だが、そこに匡政の姿はない。千鼓は空手仲間に囲まれ楽し く充実した合宿生活
でなぜ淋しさを感じてしまうのかまだ分かっていなかった。
 そんな訳で、匡政は千鼓のいない鞍馬山で呆けていた。木の枝に腰かけて竜笛を吹きなが
らぼんやりとしている。あまりにも呆けているので匡政の角頭巾に蝶 が停まった。
「匡政様、修行をさぼっているとお父上のお叱りを受ける事になりますぞ」
「ああ、分かっておる」
 羽団扇の央羽は匡政に言うが、匡政からは気のない返事が返ってくるだけである。

      ◇

 少し時間が経ち。
 早紀はレモンのカキ氷を食べている右鳴にもたれていた。
「左鳴からええ匂いがしたん」
 そう言いながら、左鳴がカキ氷を水筒の中に入れるのを眺めている。シロップ無しなのは
このためのようだ。
 右鳴はスプーンでカキ氷の塊を崩しす。
「ああ、左鳴の風下に立つと微かですが何かの香りがしますね」
 早紀はカキ氷を水筒に入れている左鳴を見ながら言った。
「竜脳なんやて。右鳴は何つけとるの?」
 早紀の頬が赤いので右鳴はカキ氷を早紀の口に含ませる。
「本日はアラミスです」
 早紀は溶けて口の中に広がるレモン味を飲み込んだ。
「アラミス知ってる。母上も持ってる」
「頼子様は香水をいろいろ集めるのがお好きですからね」
「うん、母上はお洒落が好きやから香水もいっぱい持ってる」
 今度は、カキ氷を水筒に移し終わって水筒を懐に入れている左鳴を見て、早紀はもう左鳴
に近寄っても叱られないだろうと思い左鳴にもたれた。
「左鳴がお洒落するなんて知らんかった」
 左鳴は器に残ったカキ氷を口に含む。
「いえ、竜脳は防虫剤として箪笥に入れているだけなので……」
「お香を防虫剤にしてるん!?」
 意外な言葉に早紀は戸惑う。
 そう、お香として多用される竜脳は防虫効果もあるのだ。
 驚きが手伝って続きの会話が切り出せず困っている早紀に、右鳴は声をかけた。
「早紀様、なにはともあれ左鳴がお香を使うなんて少しビックリしましたね」
「うん、左鳴に好きな人が出来たかと思った」
 早紀の言葉で、一瞬、左鳴のスプーンの動きが止まる。が、直ぐにスプーンを動かすとカ
キ氷を口に入れた。
「私は門番ですので特定の思い人は持たないようにしております」
「誰もおらへんの?」
 言った後に、早紀は口を開けて左鳴のカキ氷を催促する。
 左鳴はカキ氷を早紀の口に入れながら言った。
「いいえ。門を通る者、門が守る者が私の大切な思い人です」
「ふーん、そうなん」
 早紀が考えながら返事をしていると、左鳴は最後のカキ氷を口の中にかき込んで、お盆に
空の器を乗せた。
「ご馳走さまです」
 右鳴の器も回収する。
 早紀は左鳴が持っているお盆に手を出した。
「早紀が屋敷まで持って行く」
 左鳴は手が届かないようにお盆を高い位置に固定する。
「私が運びますから」
「持って行きたいの。氷が無いからええやん。お願い」
「早紀様は鞍馬のご息女なのですから、こんな事は侍女に任せればよいのです」
「左鳴、お願い……」
 早紀がお盆を掴もうとして飛び跳ねていると、右鳴が早紀の姿を面白そうに見ながら言った。
「いろいろやってみたい年頃なんですよ。左鳴、持たせてやったらどうですか」
「むう……」
 左鳴は右鳴に唸ると、早紀が届くようにお盆の位置を下げた。
「早紀様、何かあったらすぐ私をお呼び下さいね」
「うん」
 早紀にお盆が渡った時、左鳴は新たな気配を感じる。この気配も屋敷からのようだ。
 早紀は左鳴の眼の焦点があってないのを不思議に思って声をかけた。
「左鳴?」
「頼子様がお越になるようです」
 左鳴は千里眼を使って離れた場所を見ているようだ。
 右鳴が早紀のほっぺをつついた。
「早紀様のお帰りが遅いので迎えに来たんじゃないですか」
 右鳴にからかわれて、早紀は仕返しにほっぺをつついた右鳴の指を噛もうとするが、右鳴
はすぐに指を引く。
 右鳴の笑い声が聞える横で、左鳴は直立不動で屋敷を見ている。
 暫くすると左鳴の言う通り、屋敷の陰から頼子が現れた。後ろにはお庭番の烏天狗が数名いる。
 頼子の登場で右鳴も背筋を伸ばして立った。
 頼子は門に来ると、大柄の左鳴を見上げる。
「先ほど連絡が入ったのですが、伊豆の源氏の姫が京都駅に来ているようなの。ご自分で交
通機関を乗り継いで鞍馬まで来たいとおっしゃってるけど、姫にそんな事はさせられないか
らお庭番を迎えに出す事にしたわ」
 次に右鳴を見る。
「荷物があると思うから式神を2、3体出してくれる?」
「承知しました」
 右鳴は懐から式神を出すと羽団扇であおいで飛ばした。
 風に舞う式神は空中で烏天狗に変わると地面に降り立った。頼子が連れてきた烏天狗と同
じくらいの身長がある。
 頼子は烏天狗と式神の数を確認する。
「これならお迎えに行けそうね。いらっしゃったら失礼のないように姫をお迎えしてね」
「はい」
 右鳴と左鳴は同時に返事をして頭を下げた。次に門の扉を開けて、お庭番の烏天狗と式神
の烏天狗が門から飛び立つのを見送る。
 早紀はお盆を持ちながら頼子を見上げていた。
 右鳴と左鳴以外の者には自分から口を利くことが少ない早紀だが、母頼子には早紀が言わんとし
ている事が伝わっている。
 頼子は早紀のお盆に手をかけながら言った。
「月ちゃんが来るわよ」
「月琴姉さま?」
「そうよ」
 頼子はお盆を引っ張るが、早紀はお盆を渡さない。
「持ってってあげるからお盆をちょうだい」
「早紀が持って行きたいん」
 頼子は不安な表情をしながらも頷く。
「じゃあ、月ちゃんのお迎えの準備があるから先に屋敷へ行くけど、頑張って自分で持って
くるのよ」
「うん」
 返事をすると、先に歩き出した頼子に続いて早紀は短い足を動かして歩き出す。お盆の上
の食器が揺れて触れ合う音がする。
 早紀がこけてしまうのではと気をもんでいる左鳴を見て、右鳴は左鳴を羽団扇であおいだ。
以前の左鳴なら門番に徹するため門から離れた者の事など気にもか けないのだが、今の左鳴は屋敷へ戻ろうとしている早紀を心配そうに見ている。
「いつもより汗が多く出ていますよ。早紀様が心配ですか」
「ああ。だが、門番の立場では見守るのが精一杯だな」
 左鳴は初めて右鳴の前で素直な思いを口にした。
「そうですね」
 右鳴は同調して頷くと先輩である左鳴に尊敬の意を込めて涼しくなるように冷たい風を送った。

          ◇

 源(みなもと)月琴(つきこ)。匡政と同じ学年でありながら三月生まれの彼女は匡政を「お兄
様」と呼ぶ。夏休みを利用して天狗の妻候補である月琴は夫に なるかもしれない匡政に会
いに来たのだ。
 天狗の里に到着した月琴は、扇揚殿に迎えられ定孝と頼子から手厚い歓迎を受けていた。
 月琴は草色のワンピースを着て肩にお下げ髪を垂らしている。お下げは千鼓よりも長い。
正座をすると三つ指を床につけて頭を下げた。
「お久し振りでございます」
 小学四年生とは思えない落ち着きようである。
 頼子は近づいて膝をつくと、月琴の手を取って顔を上げさせた。
「本当に久し振りだわ。月ちゃん、お顔をもっとよく見せて」
「頼子おば様」
 失礼のない挨拶をしようと緊張していた月琴の顔が笑顔になる。
 早紀も月琴の傍に座る。
 定孝も頼子の隣に腰をおろした。
「月琴姫、元気そうでなによりじゃ。匡政は先ほど法螺貝で呼んだゆえ、もうじき戻ると思うぞ」
「はい」
 匡政と聞いて月琴は更に笑顔になる。
「月琴姫は会うたびに美しくなるのう。やはり源氏の姫だけのことはある」
 定孝が顎を撫ぜて髭の剃り具合をみながら鼻の下を伸ばしていると、頼子は腕を伸ばして
定孝の足をつねった。
「あぎゃ〜」
 こうして月琴は鞍馬家からの歓迎を受けながら匡政が屋敷へ戻るのを待った。

          ◇

 月琴が屋敷に到着して数分後。
 猛暑のため、右鳴と左鳴は今も門の内側に出来た陰の中にいた。陰が伸びたこともあって
右鳴と左鳴は間をあけて立っている。
 門番として月琴達の迎えの仕事を終えた二人は一息ついていた。
 右鳴は右扉の蝶番辺りにもたれながら言った。
「月琴様、お綺麗でしたね」
 左鳴は左右の扉の中心にもたれながら言った。
「ああ、源氏の姫君の中では群を抜く美しさだな。だからだろうな……」
「え、何がですか?」
「従者に天狗が一人混じっておった」
「本当ですか!?」
 右鳴はもたれていた蝶番から背中が離れ前のめりになって驚く。
「気配を隠しておったが、あれは間違いなく天狗だ」
 右鳴は腕を組む。
「どこの天狗でしょうね」
「月琴様は伊豆の源氏ゆえ、木の葉天狗だろう。神通力はかなりのものとみえる」
「天狗なら許しもなくよその里に入れぬことは知っているはず。なぜ黙して里に入ったのか。
定孝様はご存知でしょうか」
「さあな」
右鳴は懐から式神を一枚出した。
「一応、定孝様にお伝えしましょう」
「まて、術は使うな。むこうにばれるぞ」
「しかし……」
 右鳴と左鳴が話しをしていると門の外から緊張の無い伸びた声が聞えてきた。
「おーい」
 匡政の声である。
 右鳴はとりあえず式神を懐にしまうと蝶番にまたもたれた。
 匡政の声はまたする。
「おーい、右鳴、左鳴、おらんのかぁ?」
 右鳴がもたれながら口を開く。
「おりますよ」
「月琴が来たって父上から風の伝(つて)が届いたんや。門を開けてくれ」
 右鳴は面倒臭そうに答える。
「いつものように私達の結界を破って屋根を飛び越えていらっしゃればよいじゃないですか」
「月琴はわしの客人なんやろ」
 それを聞いて左鳴は腰から羽団扇を取り出した。
「それは気がつきませんで。坊ちゃん申し訳ありませんでした。右鳴、開けるぞ」
「はいはい」
 右鳴と左鳴は門を少し開けると顔を覗かせた。
左鳴は手招きをする。
「これで通れますから、どうぞ」
「そうじゃなくて」
 匡政は門を潜ろうとしない。
 右鳴も早く通れと言いたげに匡政を招く。
「そうじゃないって、門は開いているじゃないですか」
「違うって。父上や早紀が帰った時は門の前で恰好良く待っているやろ。わしにも、それを
やってくれと言うとるんや」
 右鳴は首を項垂れる。
「門の内側で涼味をとっているのに、なんでわざわざ門の外で陽に当たらなならんのです」
 だが、左鳴は頭を下げる。
「畏まりました。坊ちゃん、少々お待ち下さい」
 その後、門は静かに閉じた。
「あ〜、汗が引かないうちにまた門番の仕事とは」
「これ右鳴、門番が門番の仕事でぼやくでない」
「……はい」
 右鳴と左鳴は門の屋根の上に飛び上がった。
 屋根の上で右鳴は記憶をめぐらせる。
「ご子息のお迎えはこうだったかな……」
 ヘソの辺りで両腕を交差させてから広げて、扉側の腕を斜めに上げ、反対側の腕を斜めに
下げてみる。
 左鳴は右鳴のぎこちない腕の動きを見て目の前でやって見せた。
「こうだ」
 ほぼ右鳴と同じ動きだが、間違いないと自信がある左鳴の腕の動きは力強い。
「やっぱりこうでしたね」
 右鳴がホッとしながらもう一度練習していると、左鳴は水筒を懐から出しながら低い声で
右鳴を嗜める。
「門番ならそれくらい覚えておけ」
 右鳴は再度練習する。
「匡政様のお出迎えを正式に行ったのは、幼稚園と小学生の入学式の二回と所用のほんの数
回ですからね。忘れてしまいそうで」
 その間に左鳴は水を飲んで喉の調子を整えると、体を振るって羽の間に空気を含ませて身
形を整えた。
「さあ、ご子息お迎えの儀式を始めるぞ」
「おう」
 門番の二人が同時に神通力を発した時、周りで遠慮なく鳴いていた鳥と蝉の声が一斉にや
んだ。辺りは静まり返り、風が葉を揺らす音だけが聞える。
 その風に混じって冷たい風が門の下にいる匡政に吹くと、門の前に右鳴と左鳴が舞い降りた。
「うお! 恰好ええ」
 匡政は手を叩いて喜ぶ。
 右鳴と左鳴は腰の羽団扇を持つと先ほど練習した動作をして扉を一あおぎした。
 扉は軋みながらゆっくりと開く。
 右鳴と左鳴は神通力を使って同時に叫んだ。
「匡政様、お帰りなさいませぃ」
 右鳴と左鳴の声は屋敷の奥へ響き渡った。
匡政は上機嫌だったが、ふと気付いて右鳴に近寄って聞く。
「翼は広げんのか?」
「それは、ご当主用の出迎え方法ですよ。ご子息なんですから、それくらい覚えておいて下さい」
 右鳴の言葉を聞いて左鳴は低い声でつっこむ。
「どこかで聞いたような言葉だな。今度は右鳴が坊ちゃんに説教か」
「あはは……」
 右鳴は笑って誤魔化す。
「なんや門番同士で」
 匡政が右鳴と左鳴を交互に見る。
「いえ、大した事ではありません。右鳴と坊ちゃんの仲が良いので、私が右鳴に焼き餅を焼
いてちとからかっただけです」
 左鳴は頭を下げて屋敷へと匡政を促した。
「坊ちゃん、そろそろ。月琴様がお待ちかねかと……」
「おお、そうやった。わざわざ、有難うな」
 そう言うと、匡政は翼を広げて屋敷へ飛び立った。
「坊ちゃん、屋根の上より高く飛んではいけません。門を潜った意味が無くなります」
 左鳴は急いで匡政に声をかけるが声は届かず、匡政は屋根の上から屋敷に入ってしまった。
「あーあ、こりゃまた定孝様に怒られるぞ」
 右鳴は早くも自分の事のように同情する。
 暫くして屋敷から罵声が飛んだ。
「馬鹿もん! 天窓から入ってくる奴がおるか!!」
 右鳴の予想通り屋敷中に轟いたのは定孝の怒鳴り声だった。

          ◇

 蒸し暑さ残る夕食時。
 右鳴と左鳴は、門限のため扉に閂をかけ門に封印を施していた。
 右鳴は右扉の封印を終えて羽団扇を腰に挿した。
「匡政様が叱られた時はどうしようかと思いましたが、雷雨にならなくて良かったですね」
 左鳴も左扉の封印を終えて帰り支度をしている。
「頼子様と月琴様がおれば、定孝様もそうそう怒るまい」
 右鳴と左鳴は扇揚殿の窓の明かりを見ると、屋敷の東南に位置する独身者用の使用人の屋
敷へ帰っていった。

          ◇

 扇揚殿の明かりの中では、食事をする匡政の隣で月琴が食事をしていた。
「お兄様、この肉じゃがは私が作りましたの」
 月琴はじゃが芋に肉を巻きつけて箸で挟んで匡政の口元に差し出す。
「食べて下さいませ。あーん」
 匡政に断る理由はないため目の前の肉じゃがを食べた。
 月琴は匡政の顔を見ながら聞く。
「おいしいですか?」
「うむ、うまい」
 匡政が食べる様子を見て月琴は嬉しそうな顔をしてご飯を口に含んだ。
 当然そこに定孝・頼子・早紀もおれば、月琴の従者として一緒に来た侍女一名・側近の男
一名がいるが、月琴は周りの目はお構いなしに女房振りを匡政にア ピールしていた。
 月琴のアピールは食事だけに収まらなかった。
 月琴は頼子の部屋で浴衣に着替えると桶の中にタオルを入れて足早に匡政の部屋へ行き匡
政の部屋の障子を開けた。
「お兄様」
「ん?」
 匡政は寝転んでテレビを見ている。
 月琴は匡政の後ろに座って匡政の腕を掴んだ。
「お兄様、一緒にお風呂に入りましょう」
「一緒にやと!?」
 匡政は飛び起きた。
「はい。お兄様とお風呂に入るのは初めてですので、至らぬところもあると思いますが」
 月琴は頬を赤らめて返事をする。
 匡政はテレビに向き直り座り直した。匡政の耳が赤い。
「あかん。まだ合神ロボットテングダーが終わっとらん」
 月琴は胡坐をしている匡政に寄り添った。
「ならテレビが終わるまでお待ち致しますわ」
 この二人が小学四年生だという事を忘れてはならない。
「わしを待たず先に入れ」
「私はお兄様と一緒に入りたいのです」
 匡政は悩んで頭をかいた。
「まだ千鼓とも入っとらんでなぁ」
「千鼓様ですか……」
 口では静かに繰り返しているが、月琴の脳はコンピューターのように動き人物の検索が始
まっている。だが妻候補の中どころか源氏の中にもその名は見当たら ず、月琴はさり気な
く千鼓について聞いてみた。
「千鼓様はどちらにお住まいの方ですの?」
「鞍馬山の麓近くの町だ」
《私と同じ人界の者ね》
 月琴の表情が険しくなる。
 匡政はテレビを見ることに夢中で月琴の変化に気付いていない。
「おいくつなのですか?」
「同じ四年生や」
《もしかして私のライバル!?》
「あの・・・、千鼓様はお綺麗ですか? その……、私より」
「いいや、月琴のほうが綺麗や」
《私の勝ちだわ》
 だが、匡政は付け加えた。
「どちらかというと、千鼓はかわいいんや」
《なんですって!》
「千鼓様とはよくお会いになるのですか?」
「空手稽古の日以外はよく会うぞ」
《既にデートをしているなんて完全にライバルじゃない! しかも伊豆にいる私のほうが不利》
 月琴は拳を握り締めた。
「お、お兄様。私とその千鼓様と、どちらがお好きなのですか?」
「千鼓が好きに決まっとろうが」
 合神ロボットテングダーのエンディングが流れたので匡政は月琴の顔を見た。
 月琴は般若の面のような恐ろしい表情をして匡政を睨んでいた。
「月琴どうしたんや」
 当然、怖いので匡政は月琴から離れようとするが、それが返って月琴を怒らせる事となり、
月琴は匡政の襟首を掴んだ。
「私というものがありながら浮気をするなんて許しません」
「月琴、なんで怒るんや。わしらはそんな仲やないやんか」
「違います。私はお兄様の妻候補なのです。そりゃあ正式に妻と決まった訳ではありません
が。でも、私はいつでもお兄様の妻になる覚悟は出来ております」
 匡政は月琴が嫌いではないようで顔を赤らめながら口を開く。
「まだ小学生のわしに妻と言われてもなぁ」
 月琴は匡政の手を取り自分の胸に押さえつけた。
「お兄様、触ってみて下さい。私、体が少し大人になりましたの」
 匡政の手に月琴の胸の小さな膨らみが当たる。
「な……」
 匡政は急いで手を引くが、月琴は手を離さない。
「お兄様、一緒にお風呂に入って私の事をもっと知って頂ければ、千鼓とかいう女子(おなご)
の事はお忘れになると思いますから」
 月琴は匡政を押し倒した。
「待て、月琴。わしらは小学生だ。早まるな」
 匡政は覆いかぶさってくる月琴を押し返す。
 匡政が必死で月琴を押し返していると、部屋の中に一人の男が現れた。すぐに駆け寄り月
琴を引っ張る。
「姫様、無茶をなさってはなりません」
 月琴は起こされ、月琴が掴んでいる匡政も起き上がった。
「無礼者。十郎、下がりゃ」
 側近に威厳を見せて怒る月琴はやはり源氏の姫である。
「無礼なのは姫様のほうです。鞍馬のご子息からお手をお放し下さい」
 この騒ぎを聞きつけて月琴の侍女もやって来る。
「姫様、ここはどうかお心をお静めになって下さいませ」
「杉江、お前もわらわの邪魔をすると申すのか」
 定孝と頼子もやってきて、匡政と月琴を取り囲んだ。
「ほう、元気な姫じゃのう」
「匡君にもあれくらいの元気さが欲しいですわ」
 魑魅魍魎を相手にしている天狗の夫婦にとって、月琴の乱闘騒ぎはかわいいものらしい。
 匡政は周りの者にもみくちゃにされながら叫んだ。
「なんでもいいからテレビの前から離れろ。わしは合神ロボットテングダーの次回予告が見
たいんじゃぁ」
 匡政の部屋が賑やかになっている時、庭の木の枝に二人の男が立っていた。右鳴と左鳴で
ある。烏天狗である彼らの姿は闇夜によく馴染んでいる。
「右鳴、奴の翼を見たか?」
「はい、見ました。あの十郎とかいう者、左鳴の言う通り木の葉天狗でしたね。一瞬でした
が、あの者の神通力を感じて鳥肌が立っております。ただの木の葉天 狗じゃないようですね」
「うむ。どうやら月琴様の護衛で来ておるようだが、許しもなくこの里に侵入している事に
変わりはない。一応、定孝様のお耳に入れておこう」
「そうですね」
 右鳴と左鳴はお互いに頷くと音もなく飛び立った。
 十郎は、月琴の乱闘騒ぎを杉江に任せて後ろから見守りながら、烏天狗の二人が飛び立っ
た事を感じ取り口の端を少し吊り上げて笑みをこぼした。

          ◇

 その夜。
 鞍馬の里の夜空にも天の川は煌きながら流れている。
 夕食後、騒ぎとなった月琴の怒りは、匡政と一緒に寝るという交換条件でやっと収まった。
 単に添い寝をするだけなのだが、月琴にとっては千鼓に勝った気になるらしい。
 月琴は浴衣姿で布団の上に正座すると三つ指をついて匡政に頭を下げた。
「不束者ですか宜しくお願い致します」
「うむ」
 匡政は先ほどの乱闘騒ぎでついた引っ掻き傷のある顔で頷いた。天狗として育てられた匡
政も月琴程度の所業では腹を立てないようだ。匡政は眠い眼を擦りな がら欠伸をしつつ布団
の中に入った。
 月琴は枕を持ってくると匡政と同じ布団に入る。
「月琴、お前の布団は隣じゃぞ」
「お兄様と一緒に寝ると約束したじゃないですか」
「同じ布団で寝るとは聞いておらん」
 匡政は寝返りをうって月琴に背中を見せた。
 月琴は、匡政の背中に額をつけて鼻を啜る。
「私はお兄様の妻候補なのに……」
「お前は怒ったり泣いたり忙しい奴やなぁ」
 匡政は手を後ろに回して月琴をつついた。
「月琴、手を出せ」
「どうしてですか?」
「ええから、早う出せ」
 月琴が手を出すと、匡政は月琴の手を掴んだ。
「これで勘弁してくれへんか」
 手を繋ぐ。
「わしに妻候補が何人かいるのは聞いて知っておる」
 匡政は寝返りをうって月琴の顔を見るが、綺麗な月琴の顔を間近で見るのは緊張するらし
く背中を敷き布団につけて天井を見た。
「でもな、今のわしには話が難しゅうて分からんねん。手繋ぐんやったら学校でしてるで分
かるけどな」
「それでも嬉しい」
 月琴は匡政の腕に自分の両腕を絡めた。
「あのね、お兄様……。私、頑張って花嫁修業するから、お兄様が元服したら私をお嫁さん
に選んで欲しいの」
 月琴は匡政の肩に頬を寄せる。
「頼子おば様のようにいろいろ出来るように頑張るから……。ね?」
 匡政と繋いでいる手の指を動かしながら聞くが、匡政からの返事がないので匡政の顔を覗き込んだ。
「お兄様?」
 見ると匡政は口を開けて眠っていた。
 呆れた月琴の口もゆっくりと開く。
「匡政様はお眠りになったようです」
 月琴にとどめを刺したのは、団扇立てから二人の様子を見ていた羽団扇の央羽の声だった。

          ◇

 そして夜は深まり。
 虫達はパートナーを求め愛の曲を奏でている。
 月琴は匡政と手を繋いだまま布団の中で行儀良く眠っている。
 匡政は布団からはみ出して足を広げて眠っていて、月琴と繋いでいる手だけが布団の中に
あった。
 そんな夜更けに鞍馬家の屋敷の屋根の上に人が現れた。暗くて誰なのか判らないが背の翼
を見る限り天狗だろうか。
 音もなく屋根を移動すると翼を広げて匡政の部屋の前の庭に降りた。
 庭で鳴いていた虫が一斉に静まりかえる。
 匡政は目を開けた。寝ぼけ眼で起き上がり中と外を隔てている障子を見る。寝起きでぼう
っとする意識の中で何かを感じて立ち上がろうとした時に、手を握っ ている月琴に気付いた。
乱闘騒ぎを起こした月琴でも眠ってしまえばただのかわいい少女である。匡政はそれで何を
感じていたのかを忘れてしまい再び布団の中 に戻ると寝直した。
 黒い人影は忍び歩きで縁側に上がるが、匡政はもう目覚めない。
 影は周囲を見回して何も無い事を確認すると匡政の部屋の障子に手をかける。
 すると、横から錫杖が伸びてきて手を掬い上げるようにして払うと、錫杖は影の胸を押し
て障子から遠ざけた。
「何者?」
 影のほうが驚いて声をあげる。
 錫杖の持ち主はいつの間にか影の隣に立っていた。
「何者って、ここは私達の里ですよ。十郎さん」
 そう言って、錫杖を床に立てた男は顔に薄ら笑いを浮かべる。
「お前は門番の……」
「はい、右鳴と申します」
「しっ……」
 しまった と言おうとしたのだろうか。十郎は懐から出した小袋を右鳴の目の前で開いて
袋を振り回した。
 白い粉煙が上がり右鳴を覆う。
「うわぁっぷ。なんだこれは。目に沁みる。ごほっ、ごほっ……」
 右鳴が咳き込みながら煙を払っていると、十郎は一目散に逃げ出した。
「待て、十郎。くそっ、これでは目がよく見えん」
 目から涙を流しながら懐から式神の束を出すと空中に放り投げ、紙吹雪のように降ってき
た式神をあおぐ。
「葛羽(くずは)、頼む。全てを狼に。十郎を追わせるんだ」
 式神は葛羽の風を受けたものから白狼の姿に変わり十郎を追う。
 白狼は十郎に追いつき飛びかかるが、十郎は白狼を交わし羽団扇で切り裂いて白狼を元の
紙切れに戻していく。だが、白狼の数は多く埒が明かない。
「天狗に陰陽術使いがいようとは」
 十郎は呼吸を整えると羽団扇で口元を隠した。
「佑羽(ゆうは)、火炎だ」
「はっ」
 十郎は口から炎を吐くと羽団扇をあおいで周りにいた白狼に炎を浴びせる。
 逃げ遅れた白狼は焼かれて、地面で燃える紙切れと化す。
 炎で白狼が近づけない隙をついて十郎は翼を広げて飛び立った。
 お庭番も来て黒い翼を広げて十郎を追うが、十郎は追いついたお庭番を交わして当て身を
食らわせて逃げていく。
 だが、飛び立ってまもなく真上からきた黒い影に十郎は叩き落された。
「十郎、逃がさぬぞ」
 上から来たのは左鳴だ。着地して翼をたたむと地面に倒れている十郎を捕まえようと腕を
伸ばす。
 十郎は羽団扇で左鳴の手を払った。懐から小袋を出して左鳴に投げつける。
 左鳴は飛んできた小袋を羽団扇で払う。袋は破けて粉煙が舞うが左鳴は羽団扇をあおいで
慣れた手付きで煙を遠ざけた。
 十郎はその隙をついて体勢を立て直すと左鳴をあおぐ。
「佑羽(ゆうは)、疾風(しっぷう)を。奴を弾き飛ばせ」
「はっ」
 左鳴も応戦して羽団扇をあおぐ。
「貞羽(ていは)、つむじ風だ。十郎の風を抑えろ」
「はい」
 双方の風は二人の間でぶつかり押し合った。
「佑羽、風圧で押せ。負けるな」
「貞羽、渦の巻きを早めろ」
 貞羽は唸(うな)る。
「左鳴様、相手の神通力が強過ぎます」
「ほんの少しの間だけでいい、渦を絶やすな」
 左鳴は貞羽を地面に突き刺すと、自ら風の中に飛び込んだ。
 十郎は羽団扇で風を操りながら驚く。
「なんて無茶な。ぶつかり合う風の中に入るなんて自殺行為ですよ」
 左鳴は風の中を通り抜けて飛び出すと、十郎の首と十郎が持っている羽団扇の腕を掴んだ。
「貞羽、つむじ風を止めてもいいぞ」
 次に十郎の腕を背中に回し押さえ込む。
 十郎は逃げる事は諦め、抵抗せず体をくの字に曲げて片膝を地面につけた。視野の隅に映
った地面の赤いシミの横に、また新しく出来るシミが血だということに気付いて口を開いた。
吹き荒れる風の中に入り、よくもまあその程度の切り傷ですみましたね。普通なら身が引き裂
かれてるところですよ」
 寡黙な左鳴の代わりに右鳴が答える。
「ああ、大丈夫。この左鳴は、日々鍛えてますから。鬼熊でもこの人を引き裂くことは無理」
 手拭いで涙を拭きながら歩き、焼かれずに残った数匹の白狼も一緒にやってきて右鳴の足
元に座る。
 左鳴は顔や腕から血を流しながら言った。
「このままお前を定孝様につき出す。立て」
 十郎は黙って立ち上がる。
 十郎の従順な振る舞いに、左鳴は少々困惑しながら十郎を前に進ませた。
 匡政の部屋の障子がゆっくりと開く。
「左鳴様、お待ち下さいませ」
 開いた障子から出てきたのは月琴だった。月琴は裸足で庭に飛び降りると、右鳴と左鳴の
前で土下座をした。
「申し訳ありません。どうか十郎をお許し下さいませ。鞍馬の仕来りに背いたのには訳があ
るのです。十郎は人界で育った天狗でございます。天狗道を知らぬ天 狗なのでございます」
 右鳴は躊躇してどうするのかと左鳴の顔を見る。
 左鳴は厳しい表情で月琴を見下ろした。
「どのような理由であれ、十郎が天狗であることに変わりはない。鞍馬の里を統べるのは鞍
馬天狗定孝様。鞍馬の里で起きた事は全て定孝様に通す事になってお る。謝罪あるならば、
定孝様に致せ」
 左鳴は月琴を避けて歩き出した。
「十郎」
「月琴様、私は大丈夫ですから心配しないで待っていて下さい」
 確かに、涙が止まらない右鳴と血塗れの左鳴と比べると、怪我らしい怪我が見当たらない
十郎が一番大丈夫そうに見える。
 移動する右鳴達の足音に混じって別の足音が聞えてきた。左鳴は十郎の足を止める。
 物陰から現れたのは定孝だった。大きな星のプリントのパジャマ姿で頭に同じ柄のナイト
キャップをしている。頼子の手作りパジャマだろうか。
「いやぁ、中々の戦い振りだったのう」
 にっこり笑顔で感想を言う定孝は、参戦せず物陰から双方の戦いを見ていたようだ。
 月琴は定孝の前で土下座すると早速謝りだした。
「おじ様、どうか十郎をお許し下さい。十郎は私の身辺の見回りをしていただけなのです」
「その見回りで右鳴は泣かされ、左鳴は血を流す羽目になったのか。左鳴の場合は自らすす
んでとも言えるが」
「全ては、十郎が天狗であることを黙っていた私の責任です。十郎は課せられた務めを果た
しただけなのです」
 定孝は顎を撫ぜる。
「ほう、忠義ゆえの行いか。なら大丈夫であろう。左鳴、十郎を放してやれ」
「はい」
 左鳴が十郎を放すと、十郎はすぐに土下座をした。
「申し訳ありません。逃げれば事を荒立てずにすむと思った私が悪いのです。月琴様に責任
はありません」
 右鳴が手拭いを片手に頷く。
「確かに逃げようとしてましたね。粉を撒きながら……」
 左鳴が付け加える。
「私と戦っていた時も殺気はありませんでした。むしろ、久し振りに手応えのある相手に出
会え心が躍りまして……」
 定孝は右鳴と左鳴の話を聞いて静かに笑った。
「どうやらウチの者も月琴の側近を煽ったようじゃの。今回は痛み分けということで不問に
処そう」
「有難うございます」
 月琴と十郎は同時に頭を下げた。
 定孝は欠伸をしながら辺りを見回す。
「わしの息子はどこじゃ?」
 右鳴は黙って部屋の中を指さした
 中を見ると、匡政は先ほど布団の中に寝直したというのに、また布団からはみ出して眠っ
ていた。
「この騒ぎでも起きぬとは、なんちゅう鈍漢や」
 定孝は溜息を吐く。
「本当によく眠ってますね」
 右鳴がつつくと匡政はつつかれたところを掻く。白狼が匡政の寝顔を舐めると匡政は幸せ
そうな表情を作って寝返りをうった。
 血まみれの左鳴は部屋には入らず庭から覗いて幸せそうな匡政の笑顔を見て笑う。
 定孝はまた欠伸をした。体の向きを変え自分の部屋へ足を進める。
「息子の寝顔を見てると気が抜ける。人の気も知らんと幸せそうな寝顔をしおって。わしは
もう寝るわ。あとはお前達に任せた」
 右鳴と左鳴は同時に頭を下げる。
 月琴は匡政を引っ張ってなんとか布団の中に戻そうとするが腕力が足りないようで、十郎
が代わりに匡政を抱きかかえると布団に戻した。
「十郎、有難う」
 布団をかけ直す月琴を見て、左鳴は右鳴に声をかけた。
「右鳴、帰るぞ」
「はい」
 十郎は縁側に出て再び土下座をする。
「右鳴様、左鳴様、申し訳ありません」
 左鳴は黒い翼を広げて言う。
「気にするな。我らも仕事でしたことだ」
 右鳴も黒い翼を広げて言る。
「出来れば、この涙はいつ止まるか教えてくれます?」
 十郎は平伏したまま言った。
「粉は毒性の無いキノコの胞子ですので、目を洗って胞子を除けば涙は止まります」
「十郎殿は、お前のために毒性のないものを選んでくれたのだ」
 左鳴はそう言うと飛び立った。
「そうですか。私はまだまだ天狗の修行が足りないようですね。月琴様の事が心配なら白狼
はここに残しておきますので十郎殿もゆっくり休んで下さい」
 右鳴も言葉を残して飛び立った。
「有難うございます」
 十郎は翼を広げて闇に浮かぶ右鳴と左鳴に頭を下げる。
 部屋の奥で月琴も頭を下げた。
 匡政は布団の中で夢を見ていた。ふかふかの藁に包まれて眠る夢である。実際は白狼の毛
皮で、匡政は白狼に抱きついているだけなのだが。
 何が起きたのか知らない幸せ者の匡政は夢の中でも眠っていた。

          ◇

 次の朝。
 鞍馬の里は曇空だった。蒸し蒸しするが厳しい暑さはない。
 右鳴と左鳴は、人の姿で門の屋根の上に座っていた。なぜかそこに十郎もいる。
 右鳴は先ほど早紀が運んできた握り飯を食べながら言った。
「十郎殿はお若く見えるのですが、結構なお年なんですね。匡政様と同じ歳のお子がいらっ
しゃるなんて驚きました。ねえ、左鳴」
「見ようによっては若く見えるな」
 左鳴は握り飯を食べながら頷く。その厳つい顔や毛深い腕には、かわいいキャラクターの
絵柄の絆創膏が貼られている。
 昨夜の話を聞いて、左鳴の傷を悲観した早紀が朝ご飯を運んできたついでに手当てしてい
ったのだ。
 十郎も握り飯を頬張る。握り飯を持つ腕には包帯が巻いてある。どうやら十郎も無傷では
なかったようだ。
「天狗の里には厳しい掟があり、よその天狗は入れないと聞いておりましたが、こんな事な
ら天狗であることを告げて里に入ればよかったですね」
「黙って入って良かったんじゃないですか。始めに天狗だと言っていたら鞍馬の里に入れな
かったかもしれませんよ」
「今では掟などあって無いようなものだ。屋根の上で門番がのん気に朝飯を食うなど、昔で
は考えられん」
 左鳴は門番の威厳を見せて凄むが、キャラクターの絆創膏が左鳴の表情を滑稽に見せて
しまう。
 右鳴と十郎ににやつかれて左鳴は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、勝手に笑え」

          ◇

 その頃千鼓は、朝の練習に参加していた。本日は合同合宿の最終日。昼の解散時刻まで合
同合宿の成果をみるためにトーナメント制の練習試合が行われてい た。
 千鼓は天狗の匡政を相手にして練習しているせいか、相手の動きを見切るのが早く短時間
で相手を負かしていく。
 各道場の師範達は小学四年生の部は千鼓が優勝すると思っていた。

          ◇

 そして同じ頃。
 鞍馬の里の匡政は、月琴に付き添われて着替えをしていた。
 月琴は天狗が身に着けるものを順番に匡政に渡していく。
 匡政は最後に差し出された黒の角頭巾をじっと見た。
「お兄様、どうされましたの?」
 不思議に思って月琴が聞くと、匡政は角頭巾を受け取りながら答えた。
「月琴は着物の順番・帯の順番を一度も間違えなかったな。わしは今でも間違えて母上に叱
られるぞ。天狗の着替えをどこで覚えたんや?」
「伊豆の我が家です。一緒に暮らしている天狗がおりますので、幼い頃より天狗の着替えは
手伝っております」
「あの十郎とか申す者か?」
 昨夜の出来事は匡政の耳にも入っていた。
「はい、そうです」
 匡政は頭の後ろで紐を結ぶ。
「天狗が好きなら十郎のところへ嫁いだらどうだ?」
 月琴は立ち上がった。
「お兄様、どうしてそんな事をおっしゃるのです」
「なんかなぁ。仕来りだからとかいうて愛の無い結婚をするのはイヤやねん」
「私は天狗が好きなのではなく、お兄様が好きなのです」
 訴える月琴に恥らう様子はない。
 匡政は告白を受けて顔を赤らめた。
「月琴は強いな」
「お兄様への愛ゆえですわ」
 身の内から強烈な愛を発する月琴は千鼓とは別の眩しさがある。
 今の匡政には、なぜ少女の月琴が強く思え眩しく見えるのか分からなかった。

          ◇

 その日の昼過ぎ。
 匡政は修行のため、月琴と三人に増えた門番に見送られて門から飛び立った。
「お兄様、修行頑張って下さいませ」
 月琴は手を振る。
 だが、匡政に修行を頑張ろうという思いは無い。匡政は千鼓が山菜取りに来る川原へ一直
線に向っていた。合宿は今日の午前で終わり解散すると聞いていたの で、川原で千鼓を待
ってみようと思ったのだ。もし千鼓が来なければ、そのまま下山して祖母の膝の薬を口実に千
鼓に会おうとも考えていた。
 匡政の頭の中では、いつの間にか祖母と千鼓の立場は逆転し祖母が千鼓に会うための口実
になっていた。
 千鼓が今日帰ってくると思うと待ち遠しくてじっとしていられない。匡政は川原の近くの
木の枝に腰かけて足をぶらぶらさせながら竜笛を吹く。
「匡政様、お行儀が悪いですぞ」
「構へん。見てるのは鳥くらいや」
 央羽に言われても今日の匡政は機嫌良く返事をする。
 そうして暫く竜笛を吹いていたが、待っていても千鼓は来ないので麓近くの通り道まで移
動することにした。
 麓の一番高い木の枝から千里眼を使って千鼓の家を見る。
 千鼓の母親が空手着を干している。千鼓は帰っているようだ。
 今日は川原に来ないのだろうか。それなら私服に着替えて千鼓の家へ行こうかと思案して
いると、家から千鼓が出てきた。籠を持たずいきなり走り出す。千鼓 は拳で顔を擦りながら
走り鞍馬山にやって来た。山の坂道にさしかかると流石に走るのは辛いらしく体を前のめり
にして歩き出す。
 匡政が枝を移動して千鼓に近づいて見てみると、千鼓は泣きながら鞍馬山を登っていた。
拳で顔を擦っていたのは頬を伝う涙を拭うためだったのだ。
 千鼓はしゃくりながら森の中を歩く。森が開け川原にたどりついた時に、周りの木々を見回
した。
「天ちゃん……。天ちゃん……」
 帰って来て早々涙を流していれば何があったのか聞きたい。匡政は呼ばれなくても出て行
くつもりだった。黒い翼を広げ木の枝から飛び立ち滑空する。
 千鼓はひたすら匡政を呼ぶ。
 匡政は、麓で千鼓を見た時に声をかけていればよかったと後悔した。
「天ちゃん、近くにおらんのやろか……」
 千鼓は両拳を握って力んだ。千鼓の米神に青筋が走り顔が赤くなる。そして千鼓は大声で
叫んだ。
「なんでおらへんの。天ちゃんのバカァー」
 匡政は驚いて着地を失敗して千鼓の目の前でこけた。
「いったぁー」
「匡政様、大丈夫ですか?」
 匡政の腰で央羽の声がする。
 千鼓は涙目で驚きながら匡政に走り寄った。
「天ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫や、大した事ない」
 匡政が法衣についた土を払いながらこけた場所で胡坐をすると、千鼓は匡政に抱きついた。
「天ちゃん、あたし空手の試合負けてしもうた。勝てると思っとったのに負けてしもうた」
 千鼓は匡政の肩に額を乗せると声を上げて泣き出した。空手の試合に負けたのがとても悔
しかったのだろう。
 匡政は腰から羽団扇を抜いて横に置くと千鼓の背中に手を回した。
「なんでも勝ったり負けたりするもんや。そう泣くな」
 羽団扇の央羽もその場に立ち上がって羽を揺らす。
「そうですとも。匡政様なんて何回負けたことか」
 その慰め方は匡政の耳が痛いらしく、匡政は央羽を指で弾く。
 千鼓はそれを聞いて泣き声がおさまった。鼻を啜る音だけが聞える。
「四年生の部で優勝出来ると思ったん」
「お前そんなに強いんか」
「空手の先生もあたしが優勝するだろうって言うとった。あたしよりも弱い相手だったのに」
「ふむ」
 匡政は懐から菓子箱を出した。
「ほれ、千鼓の好きなラムネを持ってきた。話は追々聞くで、これを食って少し落ち着け」
 千鼓の手を取り、箱を振って掌にラムネを落とす。
「うん」
 千鼓は嗚咽を漏らしながらラムネを口に含んだ。
 千鼓の話はこうだった。
 合宿の最終日。学生の部門は学年ごとに分けられてトーナメントが行われた。千鼓は勝ち
進み、決勝も千鼓が勝つと思われていた。しかし、千鼓は決勝で不意を つかれて一本とられ
てしまったのだ。
「あんなんは卑怯や。右からと見せて本当は左から、左からと見せて本当は右から。そんな
事されたら誰も勝てへんわ」
 千鼓はまた涙を拭う。
「相手の作戦に負けたんか」
 匡政はラムネを千鼓に渡す。
「あんな卑怯な手、作戦やないわ」
「いえ、騙し討ちは戦法の一つです。卑怯な戦い方ではありません」
 央羽は説明するが、機嫌の悪い千鼓に睨まれて匡政の陰に隠れる。
 匡政もラムネを口に放り込んだ。
「人界のもんは目で見て判断する癖があるからなぁ。騙し討ちはええ戦法やろな」
「天ちゃんまで卑怯もんの味方なん」
「いいや。千鼓の話を聞いて、わしならどうするか考えとるんや」
 匡政は絵に描かれた子狐のような細い目で千鼓の顔を見た。
「千鼓は正攻法で戦い過ぎるねん。少しくらい騙し討ちを覚えたらどうや」
「イヤや、騙し討ちなんて」
 千鼓は不快な表情をする。
「騙し討ちをせいとは言うとらん。騙し討ちをする時の動きを覚えろと言うたんや」
 匡政は千鼓の頬に残っている涙を拭った。
「相手の気を読む事が出来れば騙されへんのやけど、急には無理やろうから騙し討ちの動きを
覚えれば、徐々に相手の気の流れが分かるようになると思うで」
「気って何。何言うとんのか分からへん」
「分からんなら、やってみればええ。なんやったら、わしが騙し討ちの相手をしてやるで、
千鼓はいつものように向って来い」
 匡政は立ち上がった。尻についた土を払いながら千鼓を呼ぶ。
 千鼓は半信半疑で立ち上がった。匡政に言われるまま身構える。
 匡政も千鼓の真似をして構えた。
「こんなもんか」
 一本歯下駄を履いてやっと千鼓と同じ背丈になる匡政の実際の身長は低い。千鼓が構えた
ままで向ってこないので、匡政が先に手を出した。
「ほな、わしからいくで」
 向ってくる匡政の手を見ると千鼓の顔つきが引き締まる。道場で培われた闘争本能が千鼓
を刺激したからだ。千鼓の目は匡政の手の動きを追い、拳が向ってこ えばすぐに受け、その
腕に沿って迷わず匡政の懐に入り込んで匡政から一本とろうとする。
 匡政はその千鼓の攻撃を軽々とかわす。
「これはどうやろ」
 急に匡政の動きが変わった。匡政は千鼓に拳を連続で出す。だが、それは偽の攻撃。千鼓
が偽の攻撃とは知らずに必死に交わしたり受け流したりしているうち に千鼓のリズムが崩れ、
がら空きになった千鼓の懐に匡政は入り込んで人差し指で頬を軽くつついた。
「一本や」
 匡政が千鼓の頬を触っていると、千鼓は腕の力を抜いて涙ぐんだ。天狗に負けても悔しく
はないが、負けた決勝の試合を再現されるのは辛いからだ。
「やめるか?」
「やめん、もう一回」
 千鼓は流れ落ちる前に涙を拭うとまた構えた。
「うむ」
 匡政も間合いをとって構える。
 偽の攻撃から真の攻撃を見切るのは難しい。千鼓は匡政を相手に何度も戦ったが一度も勝
つ事が出来ないまま時は流れ。
 千鼓の負けた思いが心の糧となり匡政との組打ちが楽しくなってきた頃、空に法螺貝の音
が鳴り響いた。
 匡政は法螺貝の音に気付いているようだが組打ちの相手をやめないので千鼓は手をとめて
聞いてみた。
「天ちゃんのパパが呼んでるよ」
「今日のは大した用事やないでええ。ほれ続きを始めるで」
 匡政はなんで呼ばれているのか知っているようだ。
 千鼓は祖母の言いつけを守って天狗の事情を優先するように匡政に促した。
「でも、あかん。天ちゃん、今日はここまでにしよ。あたし、朝から戦いづめで疲れたわ」
 匡政は千鼓がその程度で疲れないことを知っている。
「本当に大した用事やないねん」
「パパの言う事は聞かなあかんて」
 匡政は千鼓の腕を掴んだ。
「わしを突っぱねるな。ちゃんと説明するからわしの話を聞け」
 匡政が説明しようとすると、空から式神が飛んできた。小さな烏天狗の姿をした式神は匡
政の頭の上にとまる。式神は尾を左右に振ってバランスをとりながら 匡政に言った。
「月琴様がお待ちです。至急お戻り下さい」
 千鼓にとっては初めて聞く名前だった。確か匡政には母と妹がいたが、どっちだろうと連想する。
 匡政は極り悪いそうに言った。
「月琴は伊豆の源氏の姫や。それだけや」
 だが、それだけでは終わらなかった。式神は律儀に説明を付け加えた。
「月琴様は匡政様の妻候補の一人であらせられます」
 それを聞いて千鼓の頭の中に祖母の声が響いた。
 ――生まれた時に何人かの妻候補が決められ、修行をして正式に天狗として認められた時
に、その中の一人と結婚するのよ――
「天ちゃんの妻候補なん?」
「そうや。でも妻やないで」
 匡政は否定すべきところはちゃんと否定する。そして千鼓の腕を掴んで放さない。
 しかし、千鼓は会った事もない月琴に匡政を取られた気がした。
 羽団扇の央羽も言う。
「匡政様、月琴様がお気を悪くされます。帰りましょう」
 匡政が式神と央羽の声を疎ましがっていると、千鼓までもが匡政に言った。
「あたしも帰るから、天ちゃんも早く帰りぃ」
 千鼓は匡政の手から自分の腕を抜く。体の向きを変えて匡政に背を見せると歩きだした。
 匡政は追いかけてまた千鼓の腕を掴んだ。
「千鼓」
 千鼓は振り返って匡政を見る。
「天ちゃんは天狗様なん。人界で暮らすあたしとは違うんよ。また別の日に遊べばええやん」
 腕を掴んでいる匡政の指を解く。
 式神がまた言う。
「匡政様、月琴様がお待ちかねです。お戻りを」
 央羽も言う。
「匡政様、戻りましょう」
 匡政はついに頷いた。
「わかった、戻る」
 頷いた匡政の顔を見て千鼓の胸が苦しくなった。
「千鼓、また遊ぶんやからな。絶対に忘れるなよ」
「うん、またね」
 匡政の言葉に千鼓は手を振り、匡政に背を見せて歩きだした。
 後ろで匡政が飛び立つ羽音がする。
 羽音と同時に千鼓の瞳から涙がこぼれた。それは空手試合の決勝で負けた時の涙とは違う
涙だった。合宿の決勝で負けた時よりも辛い敗北がこの世にあったの だ。
 千鼓は友人だと思っていた匡政への本当の思いに気づいた。伝える訳にはいかないその思
いを千鼓は心の奥に封じ込めた。
 これを境に、千鼓は鞍馬山に登らなくなった。

          ◇

 その年の暮れ。
 天狗の里は昨夜に降った雪で一面白銀の世界になっていた。
 右鳴と左鳴は朝から門の周りで雪掻きに精を出している。
 といっても、右鳴と左鳴が雪掻きをしている訳ではない。右鳴が式神を動かして雪掻きを
させているのだ。
「綺麗な雪は左鳴の所へ。汚れた雪は端に捨てて」
 右鳴は羽団扇を振りながら式神達に指示を出している。
 左鳴は門の左脇で運ばれてきた白い綺麗な雪を積み上げて丸くなるように形を整えていた。
「早紀様、体の部分はこれくらいにして、そろそろ頭を作りませんか?」
 早紀は手袋をした手で左鳴が積む雪を叩いたり削ったりしながら芸術家のような表情で一
心不乱に形を整えている。
「もっと大きくする」
「大きくされたいのは分かりますが、もうこの辺りに雪はありませんよ」
左鳴が門の周りを見回す横で早紀が顔を上げた。
「右鳴、雪をもっと。お願い」
「では式神達に言って、よその雪をここへ運ばせましょう」
 右鳴はそう言うと新たな指示をだした。
「葛羽、ついでだから屋敷の中も雪掻きをしましょう」
 羽団扇を振っている右鳴に、左鳴は握って固めた雪を投げてぶつける。
「左鳴、何をするんですか」
 右鳴の背中にぶつけられた雪がついている。
「どうしてお前は早紀様に甘いんだ」
「雪が積もった今日くらい良いではありませんか。早紀様だって毎日屋敷の中で勉強をして
いては息が詰ってしまいますよ」
「風邪を引いて熱でも出したらどうするんだ」
「左鳴の心配性がまた始まりましたね。早紀様、お寒いですか?」
 右鳴が聞くと、早紀は首を横に振った。
「動いているから寒ない。暑いくらいや」
「子供は風の子、元気な子。ですよねー」
「ですよねー」
 右鳴が言うと、早紀も口調を真似して一緒に言った。

          ◇

 千鼓も朝から玄関先で積もった雪を丸めていた。胴体部分の雪の玉が膝の高さまで丸くな
った時、千鼓は母親に呼ばれて家の中に入った。
「ママ、何?」
 母親はエプロン姿で現れた。
「パパから今電話があったんだけど、東京の本社に栄転が決まったそうなのよ」
「栄転?」
「パパは日頃の仕事振りが認められて出世するのよ」
「凄い、パパ」
 千鼓の笑顔を見て、母親はホッとした表情をして言った。
「私達も来月東京へ引越すことになるから、千鼓もそのつもりでいてね」
「引越しって、そんな急に……」
 千鼓の頭の中に匡政の顔が浮かんだ。次に学校の友達、空手道場の仲間の顔も浮かぶ。
当然、東京へ引越せば今の友達とは会えなくなる。
 千鼓は祖母の部屋へ駆け込んだ。
「お婆ちゃん、引越しの話聞いた?」
 祖母はコタツに入ってテレビを見ていた。呼ばれて千鼓の顔を見る。
「ええ、聞きましたよ。まさか息子が出世するとわねぇ」
 目尻のシワを集めて笑顔を作る祖母も母親と同じで父親の出世を喜んでいるようだ。
 家族の中で千鼓に同調する者は誰一人なく、千鼓だけが引越しに対する不満を募らせてい
た。千鼓はコタツに入った。
「お婆ちゃん、どうしよう。引越ししたら友達に会えんようになる」
 千鼓の頭の中は疎遠になっている匡政の顔ばかりが浮かぶ。
「そういやぁ、千鼓は引越しは初めてだったね」
「お婆ちゃんだって膝の薬草もらえんようになるんよ。ええの?」
 祖母は千鼓から視線を外して湯呑のお茶を啜った。
「あの人の事だから、私が東京へ行っても東京の天狗に頼んで薬草を届けるでしょう。心配
しなくても千鼓も東京へ行けば東京の新しい友達が出来ますよ」
「あたし東京の友達なんていらん。鞍馬から離れるんはイヤや」
 そう言うと千鼓は泣き出した。
 母親が台所から祖母の部屋へやってきた。持ってきた蜜柑をコタツの中心に置く。
「千鼓、何泣いてるのよ」
「ママ、あたし引越したくない」
 母親は溜息をつきながらエプロンを脱ぐとコタツに入った。
「パパは千鼓のために一生懸命働いたから認められて出世したのよ。パパだけ単身赴任って
いう方法もあるけど、単身赴任だと単身者用の部屋を借りないといけ なくなって余計な出費
が嵩むのよ」
「でも、そうやからって急に引越さんでもええやんか」
 母親は蜜柑を手に取った。
「千鼓が思うほどそんな急に引越さないわよ。向こうの家も探さないといけないし、千鼓の
転校手続きもしないといけないし」
 結局引越すことに変わりはなく、千鼓は自分の主張が通らない事に腹を立てて家を飛び出した。
 外は粉雪が降っている。千鼓は口から白い息を吐きながら、粉雪の中で霞む鞍馬山を見な
がら走った。こうなれば例え月琴がいようと匡政に会いたい。しか し、雪を踏み鳴らしながら
走り鞍馬山の麓まで来た所で千鼓は足を止めた。月琴の存在を知り匡政とは距離を置こうと
決めたのに、引越しの話を理由にまた会え ば別れが余計辛くなると思ったからだ。
 千鼓は体の向きを変えて鞍馬山に背を向けた。雪についている自分の足跡を見ながら家へ
戻ろうとした時に、千鼓の頭の上に小さい烏天狗の姿をした式神が舞 い降りた。式神は千鼓
の頭の上でバランスを取るために足踏みをする。
「千鼓殿、匡政様がお呼びです。鞍馬山へお越し下さい」
 千鼓は鞍馬山を見上げた。どこかで匡政が見ているのだ。山を下りて来ないところをみる
と、修行の途中で天狗の姿をしているのだろう。
「雪が降って寒いから家に帰るって伝えて」
 千鼓はまた自分の足跡を見ると家に向って歩きだした。
「畏まりました」
 式神は千鼓の頭から飛び立った。だが、式神の羽音は遠ざからずに近くで止まる。千鼓は
もしかしてと思い立ち止まった。
「千鼓」
 呼ばれて千鼓は振り返る。
 匡政は天狗の姿をしているにも関わらず千鼓の目の前に立っていた。
「今日もわしに会わんと帰るんか?」
「天ちゃん、天狗様の恰好で山を下りたらいかんやんか」
 千鼓は匡政の手を掴むと、急いで鞍馬の山麓の林の陰に隠れた。千鼓は木の幹から顔だけ
を出して周りの様子をうかがう。幸い雪が降っているせいで人影は無 い。千鼓は口で呼吸を
すると、無用心な匡政を叱った。
「天狗様の姿で山を下りてきて、力を欲しがる悪い人に見つかったらどうすんの」
 それでも匡政は嬉しそうに微笑んで千鼓のお下げを掴んだ。
「今日はいつもの千鼓なんやな」
 千鼓はお下げを取り返す。
「もう人が怒ってるのに。いつものあたしってなんやの」
 匡政は回り込んでまた千鼓のお下げを掴んだ。
「今日の髪飾りは初めて見るぞ」
 久し振りに会っても匡政の傍若無人さは健在だ。
 千鼓はそれが嬉しかったが、月琴の手前これ以上匡政と一緒にいる訳にいかず、またお下
げを取り返す。
「今日は用事で近くを通っただけなん。雪が降って寒いからあたし家に帰るね」
 匡政は千鼓のお下げをまた掴んだ。
「寒いならわしが火を炊いてやる。外がイヤならわしが着替えて千鼓の家に行く。たまには
わしと遊ぼう」
 千鼓は黙って去るつもりだったが、中々お下げから手を離さない匡政にはっきり伝えたほ
うがいいと思い口を開いた。
「天ちゃん、あたし来月東京へ引越すねん。だからもう天ちゃんとは会え……。会えな……」
 最後の言葉にさしかかったところで千鼓は涙を流した。会えなくなる事を告げようとすれ
ばするほど言葉の代わりに涙が出てくる。
 匡政の細い眼が開き、匡政は千鼓の手を掴んだ。
「やっぱり千鼓は帰さん。千鼓の家で遊ぶのはやめや。わしが火を炊くで風の当たらん所へ
行こう」
 匡政が移動しようとした時、千鼓は匡政に飛びついた。
「あたし引越するのはイヤなん。天ちゃんと離れ離れになるのはイヤなん」
 千鼓の封じ込めていた思いはどんどん表に出てきて、隠すことに耐え切れなくなった千鼓
は思いを吐き出した。
「あたし天ちゃんが好きなん。だから、だから天ちゃんと離れるんはイヤなん」
 匡政は千鼓の背中に手を回して抱き締めた。
「千鼓、わしもや。わしも千鼓が大好きや」
 千鼓の頭に自分の頭を寄せる。
 何かあると先に泣いてしまう匡政はこの時だけは泣かなかった。
 静かな表情で瞳を閉じて千鼓が落ち着くまでずっと千鼓の体を抱き留めた。

          ◇

 右鳴と左鳴は新しく作った雪の玉を二人で持ち上げていた。
 どうやら雪だるまの頭のようだ。
「早紀様、この辺りですかね?」
 右鳴の問いかけに早紀は首を傾げながら言う。
「もう少し右」
「この辺りか?」
 左鳴の問いかけに早紀はまた首を傾げる。
「行き過ぎ」
 左鳴は平然として雪の玉を持ち上げているが、右鳴は力みながら雪の玉を持ち上げている。
「この辺りでどうでしょうか?」
 右鳴はまた問いかけたが、早紀が首を傾げるのを見た瞬間に腰が砕けてしまい悲鳴を上げた。
「早紀様、雪だるまの頭の位置はここにしましょう。ここがいいですよ。ここにして下さい」
「左鳴はそこでええの?」
 右鳴が「早くぅ」と叫んでいる横で左鳴は頷いた。
「はい、ここで大丈夫だと思います」
「なら、そこで決まり」
 雪だるまの頭は胴体にくっつけられた。
 右鳴は口から息を吐いて思いっきり座り込んだ。
「はぁ、重かった。何でこんな大きい雪だるまを作ったんですか」
 左鳴は身についた雪を払う。
「お前が式神を使って雪を集めたからだろ」
 早紀は次の作業に取り掛かるため下を見ながら周りを歩いている。
 早速左鳴が早紀の隣について声を掛けた。
「早紀様、次は何を?」
 早紀は左鳴の顔をじっと見る。
「目にする石を探してるの。こんな形の長丸いのを2つ」
 指で楕円形を作って左鳴に見せる。
「右鳴、聞いたな。次は石だ」
「少し休ませて下さい。私の場合、体力と集中力は連動しているんですよ」
 右鳴は冬なのに汗をかいている。
「魑魅魍魎が減り戦うことすら珍しい今、複数の式神を使う機会は滅多にないんだ。修行だ
と思って石を探せ」
「石探しが修行ですか」
「そうだ。早くしろ」
 右鳴は扉に背中をつけたまま立ち上がった。背中と扉が擦れる音がする。
「はい。葛羽、もう一仕事だ」
左鳴は早紀の背丈に合わせてしゃがんで言った。
「石は右鳴が探してくれるそうです」
 左鳴の後ろで右鳴がイヤそうに顔を歪ませている。早紀は二人を楽しげに見ながら言った。
「じゃあ、次は眉と鼻と口になる枝を探す」
「それはその辺に落ちてる雑木を使いましょう」
「うん」
 門の左端に早紀の監督による、大きな雪だるまが完成した。
 体格ががっしりとしていて眉が吊り上りきりりとした顔立ちは力強さを感じさせる。ただ
し、左右の目の位置は上下にずれていた。
 早紀は自分の背丈より大きい雪だるまを見上げて言った。
「雪だるま左鳴の完成。溶けるまでこの雪だるまが左鳴の代わりをするの」
 左鳴はショックを受けて棒立ちになる。
「これがわし……」
 どうやら、左鳴は自分がモデルになっているとは思ってなかったようだ。
 眼が上下にずれて滑稽な顔立ちの雪だるまに門番の仕事を奪われ絶句状態の左鳴を見て、
右鳴は腹を抱えて笑う。
「確かに似てますね。大きさ、表情、いや、そっくりです」
 早紀は門にもたれて笑っている右鳴の前を通り過ぎながら言った。
「次は右鳴の雪だるまを作るから。また雪を集めてね」
 右鳴は引付けを起こして笑い声が止まる。
「私のは作らなくていいですよ」
「何を言っている、早紀様のおおせだ。早く雪を集めろ」
 左鳴は笑われた仕返しとばかりにかなりやる気になっている。
「安心しろ、右鳴の顔はわしが作ってやる」
 指の関節を鳴らして準備運動をしながら不敵な面構えで微笑んだ。

          ◇

 匡政と千鼓は鞍馬山の森の中にいた。木々が笠になっているため雪は下まで降ってこない。
二人は山の斜面の段差の陰で寄り添って座っていた。二人の手は匡 政が掴んでから放れてい
ない。
 匡政は目の前の焚き火が消えないようにつついたり新たな薪を放り込んだりしていた。
「そんで家を飛び出したんか。千鼓の母上が心配するな」
 匡政は片手で懐から式神を出した。匡政が何か呟くと式神は一羽の雀になる。
「わしと一緒にいる事を婆に伝えておこう」
「天ちゃんが式神を作ってるんや」
 匡政は雀を放った。
「夏休みが終わってから勉強が忙しいちゅうて千鼓は鞍馬山に来なくなったやろ。だから千
鼓と連絡をとるために覚えたんや。式神は天狗の術じゃないから作る んはめっちゃ難しいけ
どな」
「天ちゃん、ごめん」
 泣きやんでいた千鼓はしゃくりあげる。
「勉強が忙しいのは嘘なん。妻候補がいるって聞いて怒れてきて天ちゃんに会うのがイヤに
なって嘘をついたん」
 匡政は視線を落とす。
「わしの事がイヤになって嘘ついたんか」
 千鼓は急いで言い直す。
「違う、会いたくなかっただけ。月琴さんの話が出るから」
 匡政は千鼓の嫉妬を内心喜んだ。
「天狗になるのがイヤなわしが飛ぶ練習をしたんは千鼓に会うためや。風の操り方を覚えた
んは千鼓と沢山の山菜を摘むためや。火の使い方を覚えたんは寒い時 に千鼓と一緒に焚き火
をして暖まるためや。式神を覚えたんは千鼓と連絡をとるためや。わしが修行をするんは全部
千鼓のためなんや」
「あたし、天ちゃんがそんな風に考えていたなんて知らんかった、そやからあたし嘘ついた
バチが当たって……。今度は本当に天ちゃんと離れ離れに」
 千鼓はまた泣き出した。
 匡政は焚き火に薪を放り込む。火の粉が舞い炎が一瞬大きくなって匡政と千鼓の顔を照らす。
「なあ、聞いてもええか?」
 千鼓は鼻をすする。
「何?」
「千鼓がわしを好きって言うんは、ラムネが好きと同じ意味か?」
「違う」
「婆が好きと同じ意味か?」
「そんなんやない」
 千鼓は何回も首を横に振る。
「じゃあ……、父上と母上のようにずっと一緒にいて、そのなんだ……」
 匡政は上を向いたり横を向いたり、指で頬を掻いたりしながら聞く。
「子を成したいと思う好きと同じなんか?」
 引越しで追い詰められた千鼓に月琴への遠慮は無かった。
「そんなん決まっとるやんか」
「そ、そうか」
 叫ぶように言った千鼓の声に少し驚きながら、匡政は提案を一つ出した。
「なら離れてもまたくっつく方法が一つだけある」
「それ本当なん?」
 千鼓が顔を上げると、匡政は千鼓の頬に流れる涙を拭った。
「うん、ある。ただな、めっちゃ大きな術やねん。鞍馬寺の毘沙門天様のお力を借りて二人
をくっつける術やで一度術をかけたら簡単に消せないんや。意味分か るか?」
「うん、分かる」
「本当に分かっとんのか。術をかけると離れていても引き合ってくっつこうとするんや。他
に好きな奴がおってもやで」
「うん、それくらい分かるって」
 千鼓はだんだんいつもの調子を取り戻してきた。
「ほな、今から二人で天狗の結婚式をするか」
「天狗の結婚式!?」
 匡政は千鼓の手を放した。懐から式神を四枚出す。
「そうや。父上と母上のようにずっと一緒にいて、わしの子を成したいと思う好きと同じや
ったら、方法は天狗の結婚式しかあらへん」
 千鼓は匡政が何を言っているのかやっと理解した。体中の血が沸き立ち頬が熱くなってくる。
「もしかして、今からあたしは天ちゃんと結婚式をして、それから子作りするん?」
 こうして改めて言われると匡政も照れが出て顔が赤くなる。
「結婚式は今からするが、こっ、子作りは別の日や。わしら小学生やぞ」
 どうやら、千鼓が知らない子作りの方法を、匡政は知っているようだ。
「ちょっと準備に時間がかかるで、ついでに天狗の結婚式の方法を説明するわ」
 匡政は手に持っていた四枚の式神をあおいで鳩くらいの大きさの烏天狗を作った。
「この烏天狗が四方に立って結界を作る。わしと千鼓は結界の中に立つ」
 匡政は千鼓の手を引いて四方の中心に立たせた。
「わしがこうして羽団扇を掲げる。央羽、気張れ」
「ふん、ぬう」
 匡政は掲げた羽団扇を見ている。
「まだちょっと時間がかかるみたいやけど、央羽の羽が白く光ったらお互いの鼻にちゅうを
するんや。ほんで、お互いの鼻も白く光ったら結婚完了や」
「そんだけ?」
「そうや」
 人界の結婚式と比べて天狗の結婚式はなんとシンプルなものだと千鼓が思っていると、羽
団扇の央羽の羽が白く光った。千鼓は央羽の羽を指さした。
「あ、光った」
「お、やっと光ったか」
 千鼓は、羽団扇を見ている匡政に歩み寄って匡政の鼻に口付けをした。
 匡政にとってそれは不意打ちだった。
「もしかして今、わしの鼻にちゅうしたんか?」
「うん、した」
「なんで説明の最中にちゅうするんや。ちゅうは男が先にするって決まっとんのやぞ」
「そんなん早う言うてくれな分からんやんか」
 匡政は怒ったが、千鼓はまた顔を近づけてくる。
「あ……」
「なんだ、またちゅうする気なん……か」
 近づいてくる千鼓の顔に緊張して匡政の声がだんだん小さくなり、千鼓の唇を見ている両
目が寄り目になる。
 千鼓は匡政の鼻をじっと見た。
「本当に鼻が白く光っとる」
「わしの鼻、今光っとんのか?」
「うん、光っとる」
「そりゃあかん。大変や」
「え?」
匡政は急いで千鼓の首に手を回し後頭部を掴むと引き寄せた。
「千鼓がわしの善き妻となりますように」
願い事をすると匡政も千鼓の鼻に口付けをした。瞳を閉じている匡政の口付けは長かった。
「天ちゃん、いつまでちゅうするん?」
 千鼓が問いかけて暫くしてから匡政はゆっくりと千鼓から離れた。匡政はじっと千鼓の鼻を見ている。
「よかった、千鼓の鼻も光った。わしの鼻はまだ光っとるか?」
「うん、まだ光っとる」
 匡政は羽団扇を見た。
「央羽も光っとる」
そして息を吐いて羽団扇を下した。同時に結界は消え央羽の羽の光も消える。
「ちゅうの順番が逆になって一瞬ひやっとしたが、結婚式は無事終了や。これでわしらは夫
婦になったで」
「本当に?」
「ああ、こんで千鼓が東京へ行っても大丈夫や。どんなに離れてもわしらの鼻についている
夫婦の印が呼び合ってわしらを引き会わせてくれる」
 千鼓は匡政に抱きついた。
「天ちゃん、大好きや」
 匡政は千鼓の背中に手を回す。
「わしも千鼓が大好きや」
 そして匡政は決心をした。
「わしは千鼓のためにもっと修行して天狗になる。天狗になって千鼓のいる東京へ行く。東
京へ行ったら天狗が学園長を勤める高校を受験する。千鼓もその高校を受験するんや。そう
すれば高校で毎日わしと会えるで」
「そんなん無理やて。天ちゃんみたいに頭良くないもん」
 匡政は抱きついたまま千鼓のお下げを触る。
「大丈夫や。天狗が学園長を勤める高校やで鼻の印があれば試験せずに合格や」
「本当に合格するんやろか」
「鼻の印は天狗なら誰でも見えるからな。千鼓は天狗の妻という事で合格や」
 千鼓は匡政の法衣から香る白檀の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「嘘みたいな話で信じられへん」
「東京の高校行けば分かるわ」
 こうして二人は抱き合っていたが、匡政が誘導して千鼓を焚き火の前に座らせた。匡政は
焚き火に新しい薪をくべてから千鼓の隣に座って肩を寄せた。
 雪がちらつく寒い冬なのに肩を寄せ合っている二人の心身は春のように仄かに暖かかった。

          ◇

 右鳴は茫然自失状態で右の扉にもたれていた。
 早紀は門の右端で新しく作った雪だるま右鳴を見て喜んでいる。
 左鳴は普段の左鳴からは想像がつかないほど珍しい万遍の笑顔を見せて雪だるま右鳴を撫
ぜていた。
「早紀様、右鳴にそっくりですね」
「似てる、似てる。壁の陰にいる時はいつもそんなんや」
「゙あ〜、なんでそうなるんですか。頑張って雪を集めたのに酷いじゃないですか」
 右鳴は天をあおいだ。天の神に助けを求める如く。
 雪だるま右鳴は本人に似せて作られただけに、とてもすらりとした体型だった。円筒形の
郵便ポストのように。顔付きも右鳴の全てを物語っているといっても過言ではないほど特徴
を掴んでいた。ひょっとこのように。
「だって壁の陰にいる時はいつも女の人とちゅうしてるやん」
 早紀はひょっとこ顔の「雪だるま右鳴」がかなり気に入ったようだ。
 左鳴は早紀に頭を下げた。
「早紀様、雪だるま右鳴を作って頂き本当に有難うございます。門番の仕事を怠けてばかり
いる右鳴にとっては一番の薬になるかと思います」
「右鳴、門番の仕事をそんなに怠けているの?」
「とんでもございません。私が真面目に送り迎えをしている事は早紀様もよくご存知ではあ
りませんか。それに私が門を離れる時は左鳴が門の上で琵琶を奏でている間だけです」
 早紀は左鳴を見上げた。
「右鳴は、とんでもございません。て」
 左鳴は同意する。
「それでは早紀様のおおせのままに、右鳴はとんでもございません、という事にしておきましょう」
 言葉の意味が掏り替わっている
「結局、あの雪だるまはこのままになるのですか」
 早紀はすぐに訂正した。
「右鳴、違う。「雪だるま」やなくて「雪だるま右鳴」あっちが「雪だるま左鳴」ね」
「……はい」
 右鳴はそんな早紀の態度を見てこれ以上の抵抗は無駄と思い諦めた。

          ◇

 時が過ぎ、焚き火の中の炭が音を立てて崩れて火の粉が舞った時、匡政と千鼓は二人だけ
の暖かい世界から現実の寒い冬の世界へ引き戻された。
 二人は同時に焚き火を見る。
「天ちゃん、火が消えそう」
 匡政は千鼓の肩を抱いている手に力を入れる。
「あとでわしが薪を拾いに行くで、もう少しこのままいさせてくれへんか」
 頑張って千鼓を口説くが、体というものは正直なもので腹の虫が音を立てて昼を告げる。
「そういえば、お昼ご飯まだやったね」
「腹のアホ。こんな時に鳴るな」
 匡政が自分の腹に対して怒っていると、千鼓は匡政の腕を解いた。
「あたし帰る。ママが心配してると思うし」
「千鼓」
 匡政は腕を解かれても、そのまま千鼓の腕に指を滑らせて最後にたどり着いた千鼓の手を
握る。匡政は、久し振りに会えてしかもやっと両思いになった千鼓を 手放したくなかった。
 千鼓は掴まれた手を振りながら言う。
「明日も会うから。引越しするまで毎日天ちゃんに会うから」
「本当か?」
「うん、約束する」
「その……、わしが式神を飛ばしたら返事も欲しいんやが」
「ちゃんと返事もする」
「なら、麓の山道まで送る」
 匡政は千鼓と手を繋いだまま足で蹴って土をかけて焚き火を消す。山火事にならないよう
にしっかりと呪文を施す。
 その後、匡政と千鼓は仲良く歩きながら来た道を戻った。麓まで歩き山道に差しかかった
所で匡政と千鼓は立ち止まった。
「天ちゃん、また明日ね」
「また明日な。わしが先に式神を飛ばすでなんで遊ぶか相談しような」
「うん」
 千鼓は足を一歩前に出して匡政に近づいた。顔を近づけて匡政の頬にキスをする。
 一瞬のキスで匡政は緊張して棒立ちになった。
「ママが心配するで」
 千鼓は匡政から離れると走りながら匡政に手を振った。
 これが本日の二人のさよならだった。
 匡政は明日のさよならはどなるのかと楽しみにしながら千鼓に手を振る。しかしキスはこ
れっきり。日本男児なら分かると思うが、例え頬でもキスのチャンスはそうそう巡ってくる
ものではない。
 そして、千鼓が家に帰ってから知った事実が一つあった。
 千鼓は走って家に帰り、玄関まで迎えに出てきた祖母の顔を見て驚いた。
 祖母の鼻が白く光っていたからである。
「お婆ちゃん、その鼻……」
 祖母も千鼓の顔を見て驚いている。
「千鼓、お前まさか……」
 祖母にも千鼓の鼻の光が見えるのだ。
 千鼓は祖母がずっと隠し続けてきた秘密を知った。そして、なぜ天狗と人との違いを
千鼓に話して聞かせていたのかも知った。
 引越しで別れるだけでもこれ程辛いのに、ずっと別々に暮らしてきた祖母はそれで幸せだ
ったのだろうか、千鼓の頭の中で疑問が渦を巻いて揺れ動く。
「お婆ちゃん、あたし、あたし……」
 祖母が別れる辛さをどうやって我慢してきたのかと思うと、千鼓の瞳に涙が込みあげてきた。
 祖母はそんな千鼓を温かく迎えた。
「何も言わなくてもいいのよ、千鼓。何も言わなくても」
「お婆ちゃん。うわぁん」
 千鼓は祖母の胸で泣き出した。
 祖母は縋り付いて泣く千鼓の背中を撫ぜた。

          ◇

 でもそれは過去の出来事。

          ◇

 時は戻り、現代。
 匡政と月琴の結婚騒動から一ヶ月ほど経ったある日。
 東京は鮮やかな春の夕焼けに包まれていた。
 千鼓の自宅に黒い翼が音もなく舞い降りる。降り立つ直前に隠れ蓑を脱いだので黒い翼だけ
が舞い降りたように見えたのだ。
 庭で洗濯物を取り込んでいた千鼓の祖母は来訪者に気付いたがそ知らぬ振りをしていた。
「清さん、わしじゃ」
 一瞬、祖母の手が止まるが、また動き出す。
「大天狗様がこのような所にいらっしゃってはいけません。愛宕山(あたごやま)にお帰り下さい」
 年輪が刻まれた顔を持つ来訪者は、愛宕山の大天狗のようだ。
「清さんを迎えに来たんじゃ。もう息子から離れてもよかろう」
「だからって私が急にいなくなったら家族が心配します」
 祖母は洗濯物を全部集めると縁側に上り部屋へ入って行く。
 愛宕の大天狗は祖母のあとを追って縁側に駆け寄った。
「わしが清さんの家族に話をする」
 祖母は部屋から顔を出した。
「息子の父親が愛宕の大天狗だと言うおつもりですか。誰も信じませんよ」
 また部屋の中へ入って行く。
「だが孫の千鼓ならわしの話を信じるだろ」
「ええ、信じますとも。そして、鞍馬から東京へ引っ越したのは祖父のせいだった、と知る
でしょうね」
 祖母はお茶と茶菓子を持って部屋から現れた。縁側に座る。
「千鼓は息子の出世を喜んではおらんのか」
「いいえ、喜びましたよ。けれど引っ越しには大反対で千鼓は夜な夜な泣いておりました。
息子の出世だって天狗の縁故なのでしょ。実力で出世したのではない と知ったら息子もあな
たをどう思うか」
「天狗が自分の家族を守って何が悪い。それに縁故の出世だろうと実力がなければ今の地位
は維持出来ぬと思うが」
 愛宕の大天狗は縁側に腰掛けてお茶を啜る。
「天狗がいかに力を使おうとも、どうにもならない事があると、まだ分からないのですか。
玄郎坊(げんろうぼう)様は昔から全然変わっていらっしゃらないの ですね」
 祖母もお茶を啜る。
「いや、わしも歳をとって悟った。もう天狗の力を使って清さんを連れて行こうとは思わん。
次回からは友人として清さんに会いに来ることにする。爻羽(こう は)、帰るぞ」
「はっ」
 愛宕の大天狗、玄郎坊は羽団扇を掲げた。
「だが、諦めた訳ではない。清さん、愛してるからな」
 天狗風を起こして浮き上がると同時に隠れ蓑を身にまとい消え去った。
 愛宕の大天狗が庭にいた時間はほんの数分。
「勝手に来て勝手に帰る。本当に傍若無人なんだから」
 祖母は愛宕の大天狗が飛び去った方角を見上げながら言った。

          ◇

 その頃。
 高校生の匡政と千鼓は校庭のベンチに座っていた。
「もう、天ちゃん無茶し過ぎ」
 千鼓は匡政の鼻の頭についた擦り傷に薬を塗る。
「こんなもん怪我のうちには入らん。……いっ、いてぇー」
 匡政は憮然としていたが、痛みを感じて跳び上がりながら悲鳴を上げる。
「怪我に入らないんでしょ。だったらじっとして」
 千鼓はベンチに匡政を押し付ける。
 どうやら匡政は何か無茶をして傷を負ったらしい。それを千鼓が手当てをしている。
 二人の目の前には噴水があり夕日に照らされた水が琥珀色に輝いて、飛沫を煌めかせなが
ら水を噴き上げている。
 匡政は薬を塗る千鼓の顔をじっと見ていたが、千鼓が塗り薬を置いたのでさっそく千鼓の
手を握った。
「千鼓、幼い頃の鞍馬山での約束を覚えとるか?」
「約束?」
 千鼓はきょとんとした表情をする。
「なんや、わしとの約束を覚えておらんのか」
 そう言う匡政は背が伸びて千鼓より頭一つ分大きい。
 千鼓は自分より背が高い匡政を見上げながら言う。
「覚えとるけど、いくつもあるからどの約束の事かわかんないよ」
「そんなに約束をしたか?」
「したよ。浮気をしない、とか。嘘をつかない、とか」
「その約束じゃなくて、もっと重要な」
「もっと重要な約束?」
「そうや」
「あ・・・」
 千鼓は、匡政が言おうとしている事を察したのか頬を赤らめる。
 匡政もいざ言葉に出す段階になって顔が赤くなる。
「まだわしの・・・」
 緊張して言葉が出てこない。匡政は噴水を見て小さく深呼吸をすると千鼓の顔を見た。
「まだわしの妻になる気はあるか?」
 千鼓は引っ越しの時の後悔はしたくないと真面目に返事をする。
「あるに決まってるやん。なんで聞くん?」
 千鼓の返事を聞いて少しはホッとしたのか、匡政は座り直すと口を開いた。
「わしは元服して天狗になった。昔より減ったとはいえ今も魑魅魍魎を相手にせねばならん。
千鼓は天狗であるわしの事がイヤになったんやないかと思って」
「魑魅魍魎はビックリするし怖いけど、天ちゃんの事はイヤになっとらへんよ」
「本当に」
「うん、今も天ちゃんが大好き。鼻にある妻の印も大事にしてる」
 千鼓は置いた薬を指で転がしながら聞く。
「天ちゃんはあたしの事まだ好き?」
「好きに決まっとるやろ。わしも鼻の夫の印を大事にしとる」
「だったら」
 千鼓は匡政に向き直り顎を少し上げて瞳を閉じる。
「千鼓」
 匡政に両肩を掴まれて千鼓は目を開ける。
「天ちゃん……」
 迫ってくる匡政を見て千鼓はまた瞳を閉じた。
 二人が初めて出会ったのは小学一年の時の鞍馬の川原。離れ離れになったのは千鼓の父親
が東京へ栄転した四年生の時。辛い遠距離恋愛にもめげず、一生懸命に勉強し高校へ入学し
て毎日会えるようになった今、誰の目を憚(はばか)る事無く会いたい時に会いデートが出来る。
これからは蜜日の高校生活が送れると思っていた矢先、二人の間に月琴が現れた。
「お兄様、私というものがありながら、こんな所で何をしているのです」
 月琴は匡政と千鼓の額に手を置くと思いっきり押し広げた。
 これによりキスは未遂に終わる。
「月琴、どっから現れた」
 匡政は浮気現場を発見された夫のように動揺する。
「私が現れたらいけないのですか」
 月琴も千鼓と同じ学生服を着ている。
「いかんちゅうか……」
 言葉を探すように言う匡政の横で千鼓ははっきりと答える。
「ダメに決まっとるやん」
「あなたには聞いておりません」
 仁王立ちの月琴は臨戦体勢に入っている。
 そして木の陰には、月琴の護衛のために十郎の息子の四郎がいる。木の葉天狗の四郎は木
の陰に身を隠して、言い合いをしている三人を静かに見守っていた。

          ◇

 次の日。
 鞍馬の里は、今日も晴れていた。

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