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時は約十年前に遡る。
← 1 (2) 3 ↓ 夏の始め、本日の鞍馬山の天狗の里は晴れていた。 早紀は誕生日前の五歳。幼稚園の制服姿でお庭番の烏天狗に抱かれ天狗の里に到着した。 おっとりしていて大人しく寡黙で綺麗な子といえば、多くの者が早紀の名を口にする。早紀 はそんな少女だった。 烏天狗に下ろされ、早紀は石畳に足をつけた。 右鳴と左鳴は門の前に立ち、羽団扇で門を開ける。 「早紀様、お帰りなさいませ」 「ただいま、右鳴、左鳴」 蝉が鳴き始めた初夏。右鳴は汗をかいている早紀の顔を見て、羽団扇であおぎ早紀に冷た い風を送った。 「本日の幼稚園はいかがでございましたか?」 早紀は、笑顔を見せて言う。 「みんなとお遊戯したの」 「楽しかったですか?」 「うん、楽しかった」 「それは良うございました」 早紀は、左鳴を見上げる。 「左鳴は聞かないの?」 「何をでございますか?」 「早紀の今日の事」 「今ほど右鳴と一緒に伺いましたので、伺う事はございませぬ」 「……そう」 早紀は、下を俯いて呟く。 「左鳴は羽団扇で早紀をあおいでくれない……」 左鳴は、早紀の呟きにも答える。 「あまり冷たい風を送っては、早紀様が風邪をお召しになりますゆえ」 そして、早紀と一緒に立っている烏天狗に言った。 「このような所で無用な時間をとらせてはならぬ。お庭番、早紀様を中へお連れするのだ」 「はっ。早紀様、そろそろお部屋へ。頼子様もお待ちです」 早紀は、お庭番に背中を押され一歩二歩と足を動かす。 振り返って門を見る早紀を気の毒に思い、右鳴は左鳴に言った。 「左鳴はどうしていつも早紀様に冷たいんですか」 左鳴は、門を閉めるため羽団扇をあおぐ。 「わしは冷たくしてはおらん」 右鳴も、一緒に門をあおぎながら言う。 「だったら門だけでなく、たまには早紀様をあおいであげたらどうです」 自分の行いに間違いがないと思っている左鳴はしかめ面で門をあおぐ。左鳴の返事の代わ りをするかのように、門の閉まる音がした。 「やれやれ。左鳴はそんな性格だから、ことごとく見合いを断れるのですよ」 右鳴は羽団扇で風を起こすと、呆れ口調を残し門の上へ飛んで行ってしまった。 「わしは門番だ。門番の務めを果たせればそれで良い」 左鳴は呟くと、羽団扇を腰紐に挿した。 「不器用なご主人様だ」 若く大人しそうな男の声がする。 「貞羽(ていは)、なんか言ったか?」 「……別に。どうせ聞えておいででしょうから、二度は申しませぬ」 羽団扇の貞羽は、嫌味を込めて答えた。 ◇ 早紀が屋敷に帰り暫くたった夕方近く。 千鼓は大好きな祖母と一緒に鞍馬山の麓に来ていた。祖母について鬱蒼と茂る森の中を歩 き、更に歩いて行くと森は開け日が差す渓流に出る。千鼓はこの渓流の周りに生える山菜摘 みの手伝いをしていた。 いつものように、お下げ髪を揺らし祖母と一緒に山菜を摘んでいると、急に初夏の風とは 思えない冷たい風が通り過ぎた。 「おや、珍しい」 顔を上げた祖母につられて千鼓も顔を上げると、反対の岸に変わった姿の子供が変な下駄 を履いて立っている。目の細い子供は、羽団扇を握り締めて、じっと祖母と千鼓を見ていた。 「お婆ちゃん、あの子誰?」 「天狗様だよ。千鼓がいる時は出てこないのに、珍しいね」 「あれが天狗様!? マンガで見るのと全然違う。着てるものはそうやけど、鼻は長くない し、どう見たって普通の顔やん」 祖母は、笑いながら向こう岸の子供の腰を指さした。 「鼻の長い顔は、ほれ、腰の横についてる」 千鼓が祖母の指の先を見ると、子供の腰に長い鼻で赤い顔をした天狗の面がぶら下がって いた。 「あ、本当だ。あんな所に天狗様の顔がある」 「何もない時は、天狗様の顔はあそこにあるのよ」 天狗は背の黒い翼を広げて川を飛び越えて千鼓の目の前に着地する。 千鼓は傍に来た天狗に興奮する。 「凄い、背中に翼がある。本当に天狗様なんや」 天狗は切れ長の目を千鼓に向けて言った。 「わしは天狗やない。天狗見習いや」 「見習い?」 千鼓がきょとんとした表情をしている横で、祖母は天狗に話しかけた。 「頂いたお薬はまだ残っております。それに今日は孫もおりますが……」 「分かっておる。その女も見えておるわ」 小さい天狗見習いは、偉そうに踏ん反り返って言った。 「急を要する。婆(ばば)、そこに跪け」 「はい」 祖母は山菜が入った籠を下ろして、地面に膝をつけて爪先を立てた状態で正座をした。 「これでよろしいですか?」 「うん、それでよい」 天狗は、羽団扇を腰紐に挿した。 「わしに触れることを許す」 鼻を啜りながら言うと、祖母の胸に飛びついて泣き出した。 「うわぁぁん。父上なんか大嫌いじゃぁ」 千鼓は、一体何が起きたのか判らなかった。 祖母はどうやら判っているようで、いつの間に消えたのか翼の無い天狗の背をあやすよう に撫ぜる。 「早く立派な天狗になって欲しいのですよ」 「父上は、わしの事が嫌いなんじゃぁ」 「我が子が嫌いな親などおりません」 天狗は、涙で濡れた祖母の服を握り締めてしゃくりながら言う。 「嫌いに決まっとる。わしは高い所が怖いと言うたのに、父上はわしを崖から突き落とした んじゃぞ」 祖母は、天狗を宥めながら言い聞かせる。 「天狗様には翼がありますから、崖から落ちることはありません」 「わしは落ちた。落ちて痛かったぞ」 「あらま……」 祖母の驚く顔を見て、天狗はまた泣き出した。 「父上は鬼じゃぁ。わしを殺す気なんじゃぁ」 「殺したりはしません。現にお体に傷が無いではありませんか。痛い思いをしたかもしれま せんが、きっと天狗風を起こして天狗様がお怪我をしないようにお守りになったと思います よ」 どこの親も我が子には厳しいもの。天狗の親も我が子には厳しいのだと、千鼓も子供なが らに天狗が泣く事情を察した。ポケットから菓子箱を取り出して、ラムネを三粒出すと、泣 いている天狗の顔の前に出した。 天狗はラムネに気付いて、濡れた目でラムネを見つめる。 「これはなんじゃ?」 「ラムネだよ」 千鼓がラムネを見せて答えると、別の所から声がした。 「こら娘、許しもなく手を出すな」 中年の男の声のようだ。 千鼓が声の主を探していると、天狗は千鼓の掌にあったラムネを全部を掴んでから、一粒を つまんで口に放り込んだ。 「よい央羽。ラムネは知っておる」 言いながら天狗はラムネを噛み砕き、残りの二粒も口に放り込んだ。 天狗はこれで泣きやみ静かになった。だが、まだ祖母から離れず、膝の上に跨いで座り祖 母にべったりとくっついている。口の中のラムネが無くなったらしく、天狗は黙ったまま千 鼓に手を出してラムネを催促した。 千鼓は、その天狗の手を叩いた。 「お礼を言わずに黙って手を出すなんて、お行儀が悪いわ」 ラムネがもらえなかった天狗は、また祖母に縋り付いて泣き出した。 「あの女も鬼じゃぁ」 「こら娘、手を叩くとは無礼であるぞ」 二種類の声から非難され、千鼓は鬱陶しがって菓子箱を持ったまま指先で耳を塞いだ。 「天狗様って五月蝿い」 祖母は千鼓を見てにこやかに微笑むと、天狗をあやした。 「ほほほ。よしよし」 「なんでそんなに泣くんよ」 千鼓が菓子箱からラムネを出して口に入れると、箱の音を聞いて天狗は祖母の服に額を当 てたまま千鼓に注目した。天狗は泣きやみ、しゃくりながら箱を見ている。 「お婆ちゃんだって、あんたを抱っこしたまんまで膝が痛いんやからね」 それを聞いて、天狗は急に立ち上がった。 「すまん。わし、婆が膝痛いの忘れとった」 「大丈夫です。頂いたお薬が効いておりますので痛くないですよ」 祖母は、立ち上がった天狗の法衣の乱れを直す。 「お優しい天狗様のお心は、お父様もきっとご存知です」 「そうやろか」 天狗は目から涙を流す。 「ええ。きっと今、天狗様を探しておいでですよ」 「そうやろか」 「そうですとも」 祖母は笑みを見せて、幼くて小さい天狗の頭を撫ぜた。 ◇ 我が子匡政がいなくなった天狗の里では……。 「匡君を崖から突き落としたら、どこかへ消えてしまったですって」 頼子が自慢の薙刀を振り回していた。 定孝は腰を抜かし、畳の上を這いずり回りながら逃げる。 「わしは突き落としとれへん。少し押しただけじゃ」 「崖の上から押したら、例え少しでも突き落とした事になるのです」 逃げ惑う定孝の股の間に、頼子の薙刀の刃が落ちる。 「きゃー、頼子、許してくれ。わしは、匡政に自分の翼で飛んで欲しかっただけなんや。現 にあいつ、落ちた時にわしが天狗風で浮かしてやったら、自分で飛んだんやで」 定孝は、自分の股のそばに刺さっている薙刀を見ながら必死になって言う。 「頼子、頼むから落ち着いて聞いてくれ。天狗は誰でも、子供の時はそうやって親に浮かし てもらって、飛び方を覚えるんや」 「それで、私の匡君はどこに?」 「匡政は、翼を生やして飛んでってしもうたで、知らん。なぁに匡政の事だ、腹が減ったら 帰ってくるやろ。だから頼子、そう怒るな」 頼子は、薙刀を畳から抜いた。 「あなたのおっしゃる事は分かりました」 「やっと分かってくれたか……」 「すぐに匡君を探しに行って下さい」 「はい?」 定孝は股を広げたまま聞き返すと、頼子は定孝の顔の前に薙刀を振り翳して言った。 「実の親に崖から突き落とされたのです。親不信になる前に匡君を探しなさい。と言ったの です」 「はいー」 定孝は、学生の如く起立をした。 ◇ 匡政こと小さい天狗は、祖母に宥められて大分落ち着いてきた。 「天狗の子は、そうやって親に浮かせてもらいながら飛び方を覚えるのです。ですから、天 狗様がお嫌いで崖から押し出したのではないんですよ」 天狗は、涙を流しながら祖母の話を聞いていた。目が切れ長で細く、子狐をマンガ風に描 いたのような顔をしているが、父親の話が出ると崖から落とされて腹立たしいのか眼が開き 獲物を狙うような鋭い目つきになったりする。 祖母は天狗と千鼓の間に入り川原の適当な石の上に座って、その思いを溶かすかのように 天狗の頬を軽くつねっては笑いかけて話していた。 天狗が手で涙や鼻水を拭うのを見て、千鼓はポケットからハンカチを出して祖母に渡した。 祖母がハンカチを受け取り天狗の顔を拭くと、天狗はそのハンカチを手にとって自分で涙を 拭った。 「婆が父上ならよいのに……」 「人界の婆は、天狗様をお育てすることは出来ません」 祖母は天狗の頭を撫でた。 「天狗様をお育て出来るのは、天狗様のみです」 「婆……」 天狗は祖母に抱きつく。 「そして天狗様を陰日なたとなって支えるのがお母様なのです」 「婆もわしを支えてくれ」 「人界の婆は、天狗様をお支えすることも出来ません」 「イヤじゃ。わしは婆がいい」 甘える天狗の頭を祖母は撫ぜていたが、少しきつい口調で言った。 「婆を逃げ場にするなら、婆はもうここには来ませんよ」 「イヤじゃイヤじゃ」 千鼓は祖母にしがみ付く天狗を見ながら、菓子箱を振ってラムネを出した。 菓子箱の音で天狗の動きが止まる。 千鼓は、天狗が見ている前でラムネを口に入れて舌で転がした。 天狗はハンカチを握りながら、千鼓の口が動く様をじっと見ている。 「黙って見てないで、欲しければ欲しいって言うたらええのに」 「欲しい……」 千鼓は菓子箱を天狗に突き出した。 「手を出して」 出した天狗の掌に、ラムネを落としながら言う。 「今度から欲しい時は、ちょうだいって言うんよ」 「うん」 頷くと天狗は鼻を啜りながらラムネを口に入れた。噛み砕く音がする。 「もらったら、ありがとうも言うんだからね」 「うん」 天狗は口を動かしながら頷いたが、ラムネをもらった礼は言わなかった。 「返事しかしいへん」 不満を漏らす千鼓に、天狗は手を出して言った。 「ちょうだい」 「ちょうだいだけは言う」 千鼓が不満をこぼしていると、祖母は笑いながら言った。 「千鼓、おあげなさい」 「けどお婆ちゃん、礼を言わん子にあげたらあかんのと違う?」 祖母は天狗を見ながら言う。 「相手が人の時はね。この子は天狗様。天狗様の礼儀は天狗様が教えるもの。私達の礼儀は 教えなくてもいいの。だからおあげなさい」 千鼓は不満そうに天狗を見ていたが、祖母に言われて仕方なく天狗の掌の上で菓子箱を振 った。天狗の掌にラムネが落ちる。しかし、ラムネが二個落ちたところでラムネは出てこな くなった。 「あ……」 千鼓は、菓子箱を振って確かめる。 「ラムネ無くなっちゃった。それが最後のラムネやわ」 最後と言われ天狗は掌のラムネを見た。一つを口に入れ、一つを摘まんで祖母に差し出す。 「婆はまだ食べておらん。これは婆の分じゃ」 天狗の噛み砕く音を聞きながら、祖母はラムネを受け取る。 「有難うございます。天狗様、申し訳ありませんが、婆は歯が悪いので、孫にラムネをあげ てもよいですか?」 天狗の細い目が丸くなる。 「歯も悪いのか……。うん、よい。女にやる」 それを聞いて、千鼓はまた不満を漏らした。 「やるって、それあたしのラムネじゃない」 千鼓は天狗に言うが、天狗は祖母にくっついてラムネを受け取る千鼓をじっと見ているだ け。 祖母は笑いながら千鼓に言う。 「まあまあ千鼓、許しておあげ」 祖母に言われても千鼓の怒りが収まる訳がない。 そうして川原の石に祖母を挟んで三人で座っているうちに、空に客船の低い汽笛のような 音が響き渡った。 「父上の法螺貝じゃ」 天狗は空を見上げ辺りを見回す。 祖母は天狗に言った。 「やはり、お父様は天狗様をお探しでしたね」 また空で低い音が響く。 「婆、わしは帰る」 「はい、お気をつけて」 天狗は、腰紐から羽団扇を取り出した。 「央羽、帰るぞ」 「はっ」 天狗は羽団扇をあおいで風を起こすと、風に乗り飛び上がった。背中の翼を広げ川を飛び 越えて向こう岸へ渡る。どうやら長距離の飛行はまだ出来ないようだ。天狗は振り返ること なく、何回もジャンプをしながら森の中へ消えて行った。 祖母は、天狗の姿が見えなくなってから千鼓に言った。 「天狗様の事は他の人に話したらダメですよ。パパやママにも内緒ね」 法螺貝の音が空に広がるその下で、千鼓は聞いた。 「なんでなん?」 祖母は、帰り支度をしながら答えた。 「まあ、話しても実際に天狗様がいるなんて誰も信じないと思うけど、もし信じた人が天狗 様に会おうとしたら、天狗の里を守る結界のせいで山の中で迷って家に帰れなくなるからで すよ」 「そうなん?」 「ええ。迷った者がいても天狗様は決して助けたりはしません。天狗様が心を砕き優しくす る相手は、天狗様から妻としての印をもらった女性と我が子のみ。他の者が山の中で迷い野 垂れ死んでも気にしません。死体もそのまま。千鼓に礼を言わないのは、そのせいでもある の」 祖母は、帰るために千鼓に手を伸ばす。 千鼓は祖母の手を握って一緒に歩きながら、祖母の話を引き続き聞いた。 「さっき出会った天狗様にも既に妻がいてね」 「あんなに泣き虫なのに、もう妻がいるん」 「ええ、結婚はまだだと思うけど、生まれた時に何人かの妻候補が決められて、修行をして 正式に天狗として認められた時に、その中の一人と結婚するのよ」 天狗の結婚話を聞いて、千鼓は突然笑い出した。 「何、急に笑い出して」 祖母は千鼓の笑いを不思議がって聞くが、千鼓は笑いがなかなか止められなくてすぐには 答えられない。 「だってお婆ちゃん……」 「どうしたの、千鼓。笑ってばかりでは分からないじゃない」 千鼓はお腹を抱えながら言った。 「あの天狗様、お婆ちゃんと結婚したいって言いそうやから……」 それを聞いて祖母も笑い出す。 「ほほほ。確かに私にくっついて泣く甘えん坊の天狗様だけど、小さくても天狗様は鼻が利 くから、人妻に結婚を申し込んだりしませんよ」 「鼻が利くって、犬やん……」 千鼓はまた笑い出す。 祖母は、森の中を歩きながら言った。 「千鼓、「鼻が利く」は犬以外にも使い方があるから、家に帰ったら辞書で調べてごらん」 千鼓の笑いが止まる。 「そうなんや。はぁい」 軽快な返事のあと、別の話題に変わり、祖母と千鼓は道中の雑談を楽しみながら鞍馬山を 下りて家路についた。 これが匡政と千鼓の初めての出会いだった。この時の二人は、まだお互いの名前も歳も知 らない間柄だった。 ◇ 次の日。 今日も天狗の里は晴れていた。 門番の右鳴と左鳴は、門の屋根の上で二人肩を並べて立っていた。 右鳴は、空の彼方を眺めながら口を開く。 「昨日の頼子様のお怒りは凄まじかったらしい。一部始終を見ていた侍女の話によると、頼 子様の薙刀が空を舞い、もう少しズレていたら定孝様は真っ二つになっていたそうな」 左鳴も空の彼方を眺めながら口を開く。 「お前は、その話をどこで聞いたんだ?」 右鳴は、空に現れた黒い点に注目する。 「左鳴、野暮な事は聞かないで下さい」 「聞こうとは思わん。程々にしろ。と言いたいだけだ」 左鳴も、空に現れた黒い点に注目しながら言った。 黒い点は門にどんどん近づき、お庭番の烏天狗の姿だと分かるようになった時点で、右鳴 と左鳴は屋根から飛び降りた。 烏天狗は門の前に降り立つと、抱きかかえていた早紀をおろした。 早紀は今日も幼稚園バックを肩から提げて、門を開けている右鳴と左鳴に駆け寄って笑顔 で見上げた。 「ただいま、右鳴、左鳴」 右鳴と左鳴は門の前で同時に言う。 「早紀様、お帰りなさいませ」 右鳴が何かを言う前に、早紀は素早く体の向きを変えて左鳴を見上げた。 右鳴は早紀の行動に気がついて、横から左鳴の様子を面白そうに眺めた。 左鳴は早紀と目が合い一瞬硬直するが、羽団扇を持ったまま腕組みをすると、お庭番に言 った。 「早紀様を中へお連れするように」 「はっ」 早紀の顔から笑顔が消える。 「左鳴は早紀とお話しをしてくれない……」 左鳴は、お庭番に背中を押され一歩二歩と足を動かす早紀を見ながら、早紀の呟きに答え る。 「私は早紀様とお話しを致しますよ。必要ならば」 左鳴の言葉を聞いて門を潜る早紀の表情が曇る。 左鳴は早紀が門を潜ったのを確認し左扉を閉める。 右鳴も右扉を閉めながら淋しそうに歩いている早紀の背中を見送った。 扉が完全に閉まってから、右鳴は羽団扇を左鳴の顔に突き付けて言う。 「今の早紀様への発言はなんですか。あれが幼い少女に言う言葉ですか」 左鳴は、右鳴に羽団扇を突き付けられても微動だにせず、羽団扇の貞羽を下ろしたまま答 える。 「我々は門番だ。扉同様、通る者の目に映る事は許されるが、それ以上の事は許されん」 「それは争いが多かった昔の決め事じゃないですか。今の泰平の世に我々がそこまで徹する 必要があるんですか。左鳴の事は尊敬していますが今回は左鳴が悪いと思いますよ。早紀様 に謝罪して下さい」 そう言うと右鳴は羽団扇を左鳴の顔から外し、 「葛羽(くずは)参るぞ」 羽団扇をあおいで風を起こして門の上へ飛んで行ってしまった。右鳴が起こした天狗風で 左鳴の首の羽が揺れる。 左鳴は風がやんでから、貞羽を腰紐に挿した。 「後悔しているなら謝ったほうがいいですよ」 「わしは後悔などしておらん。考えておるだけだ」 「謝罪の言葉をですか?」 「貞羽、少し黙っておれ」 左鳴は門にもたれて目の前の木々を眺めた。 ◇ 左鳴が考えに耽っているころ。 千鼓は鞍馬山の川原で山菜摘みをしていた。今日は一人。体の半分が隠れてしまうほど大 きい籠を持って少しずつ移動しながら、草の間から山菜を見つけては摘んでいた。 そこへあの小さい天狗がやってきた。 冷たい風が千鼓の顔を撫ぜたため、千鼓も天狗が来た事に気付いたが、礼儀知らずの天狗 とは口を利きたくなかったので、天狗には気付かない振りをしていた。 天狗は川を飛び越えて辺りを見回しながら籠に近づくと、籠の右側で見え隠れしているお 下げ髪を掴んで引っ張った。 驚いた千鼓は抵抗する。 「イヤ」 千鼓は、引っ張られて右後ろに尻餅をついた。 「いったぁーい。もう、なんで引っ張んの」 天狗は、お下げを引っ張りながら聞く。 「婆は?」 千鼓は天狗の手からお下げを取り返すと、服についた土を払いながら答えた。 「おらん」 すぐに座り直し山菜を摘み始める。 天狗は千鼓を見ながら隣にしゃがんだ。 「膝が痛(いと)うて来れんかったんか?」 「違う。ただの用事」 「そうか」 天狗の返事のあと、千鼓が何も言わないので、山菜を摘む音だけがしている。千鼓が籠を 持って少し移動すると、天狗も一緒に移動して隣にしゃがむ。天狗は千鼓と一緒に移動しな がら千鼓を上から下までまじまじと見ている。千鼓は天狗を無視していたが、天狗に訳もな く見られる事に耐えられなくなってきて、ついに口を開いた。 「お婆ちゃんはおらんのやで、もう帰ってぇよ」 見れば、天狗は千鼓のお下げの飾りを珍しそうに見ながら髪を引っ張らないようにして触 っている。 「勝手に触らんといて」 千鼓が怒って言うので、天狗は千鼓の髪飾りから手を引いた。 「今日は機嫌が悪いんやな」 それは当然の事で、千鼓は天狗の傍若無人さに嫌気がさしていた。 天狗は懐から紙袋を出した。 「今日は、わしが菓子を持ってきた。これを食って機嫌を直せ」 「いらん」 千鼓は菓子に見向きもせず山菜を摘む。 天狗は袋から菓子を取り出して千鼓に見せながら言う。 「そう言わんと食うてみぃ」 「いらんて。邪魔だから早く帰ってぇよ」 天狗が近づけてくる菓子を千鼓が避けていると、また別の声がした。 「鞍馬の山を守る天狗を邪魔者呼ばわりとは言語道断の奴じゃ」 千鼓はその声でやっと天狗を見た。 「やっぱりもう一人いる」 天狗は、顔を向けた千鼓に菓子を差し出しながら言った。 「いや、一人や。今の声もわしや」 千鼓は、顔の前の菓子を手で避けて言った。 「嘘つき。おじさんの声をあんたが出せる訳ないやんか」 「いや、間違いなくわしの声や。だで、わしが死んだら、さっきの声も聞えんようになる」 千鼓が天狗の周りを見て声の出所を探すので、天狗は菓子を見せながら言った。 「この菓子を食うんやったら、もう一つの声の事、教えてやってもええで」 そう言われて千鼓は顔の前の菓子を見た。赤い星型の洋風ゼリーの砂糖菓子。苺味だろう か。 天狗は、千鼓と目が合ったので少しはにかんだ。 千鼓はしかめっ面で返す。 「菓子はいらん。だで、あんたの話も聞かん」 天狗は、細い目を広げて千鼓を見た。 千鼓は、また山菜を摘み始める。 「あたし、あんたにつきおうとる暇無いねん」 天狗がどれ程偉いのか知らないが、人のお下げを勝手に触り、菓子で機嫌がとれると思わ れたのが腹立たしかった。千鼓が天狗を完全に無視して山菜を摘んでいると、隣から鼻を啜 る音が聞えてきた。もしやと思い天狗を見ると、やはり天狗は泣いていた。 「なんでわしの菓子を食わんのだぁ」 千鼓は天狗の泣き声を聞いても無視していた。ここで甘い顔をすれば天狗が調子に乗ると 思ったからである。籠を持って少しずつ移動しながら山菜を摘む。 天狗は千鼓と一緒に移動せず、その場に座り込んで泣いていた。 「一番ええ菓子を持ってきたのに……。昨日の礼がしたいのに……。婆の事が心配で来たの に……。なんでお前はそんなに機嫌が悪いんじゃ。うわぁーん」 千鼓は天狗を無視していたが、なかなか泣きやまない天狗に苛ついて山菜を摘む手を止め て天狗に言った。 「礼なんて、有難うだけでいいんや」 天狗は菓子を持ったまま鼻水を垂らす。 「わしが有難うを言うたら、機嫌を直して菓子を食うてくれるんか?」 「だから、そんなんやなくて……。もうしょうがないなぁ。ちょっと違うけどええよ」 千鼓は、手に土がついていたのでそのまま天狗が持っていた菓子を咥えた。上を向いて口 の中に菓子を落として食べる。 「やっぱ苺味や。おいしい。有難うね」 千鼓が口を動かしながら言うと、天狗はすぐに泣きやんだ。 「わしも昨日は馳走になった。礼を言うぞ」 言ったあとに鼻を啜る。 「結局、有難うを言わないんやから……」 千鼓は立ち上がると川の水で手を洗った。ポケットからハンカチを出して手をふくと、つ いでに天狗の顔を拭いた。 「それに泣き虫やし」 天狗は千鼓に顔を拭いてもらいながら言った。 「有難う」 「今頃言うとるし」 千鼓は天狗の鼻水がついたハンカチを洗いに再び川へ行く。ハンカチを絞り細長く折ると 首に巻きつけた。首が冷える心地良さを感じながらまた座り山菜を摘み始める。 天狗は、また千鼓の隣にしゃがんだ。 「お前はわしの菓子を食ったで、ちゃんと約束は守るぞ。お前にもう一つの声の事、教えて やる」 天狗は立ち上がった。腰紐から羽団扇を取り出す。 「ついでに山菜摘みを手伝う。よいか、央羽」 天狗が言うと、羽団扇から声がした。 「おう」 天狗は羽団扇であおいで風を巻き起こす。 「女、離れておれ」 千鼓が離れたのを確認してから、天狗は目の前の草をあおいだ。 「央羽、鎌鼬(かまいたち)じゃ」 「お任せを」 天狗が目の前の草をあおぐと、草は根元から切れて風で舞い上がった。 「次はつむじ風じゃ」 央羽は景気の良い声をあげる。 「ひゃっほぅ」 天狗は羽団扇を小さくあおいで足元に風の渦を作ると、その渦を巧みに操って草を巻き上 げ、籠の中に巻き上がった草を全て入れた。草で山盛りになった籠を見て天狗は自慢気に千 鼓に言う。 「どうじゃ、凄いだろ」 羽団扇を見せて続けて言う。 「もう一つの声はこれじゃ。わしの神通力で動いておる」 「央羽と申す」 「どうだ。女、驚いたか」 呆然として立ち尽くしている千鼓を見ながら、天狗は有頂天になって千鼓の前で羽団扇を 掲げて見せた。 「どうした、女。驚いて声も出せぬか」 周りで騒ぐ天狗を見ている千鼓の目と眉が見る見るうちに吊り上る。 「なんちゅう事してくれたん」 天狗は、羽団扇を掲げたまま停止する。 「え?」 「えらく機嫌が悪そうですぞ」 「それは、前からや」 千鼓は丸坊主になった地面を見る。その後、山積みになった籠の草を見て溜息を吐いた。 「こんな事して、あんた本当に天狗様なん?」 「バカ者、神通力で起こした風を見てもまだ判らぬのか」 おじさん声で話す羽団扇の央羽のあとに、天狗も言う。 「わしは、まだ天狗やない。天狗見習いや」 「昨日お婆ちゃん言うとった。見習いでも小さくても、天狗様やと」 千鼓は、籠の中の草を一つ手にとって見た。 「鞍馬の天狗様が、地面が丸坊主になるまで鞍馬山の草刈ったらあかんやん。それに」 睨んでくる千鼓に、天狗は羽団扇を盾のようにして構える。 「それに、なんだ?」 「お、女。この央羽に楯突く気か」 千鼓は籠を握った。 「山菜と草が混ざってしもうたやんか」 天狗に籠の中の草をぶちまけた。 「こんなにして、誰が草と山菜を分けんの」 空になった籠を草まみれになっている天狗に被せて、コンガのように上から籠を叩く。 「バカ、バカ、バカ」 天狗はすぐにしゃがんだので被せられた籠と一緒に叩かれることはなかったが、叩く音が 耳の近くでするので五月蝿くて騒いだ。 「やめろ」 「無礼者、やめぬか」 千鼓は、籠を持ち上げて中にいる天狗に言った。 「もう鞍馬山に悪さをしたらあかんよ」 草まみれの天狗は立ち上がり、頭に葉をつけたまま言う。 「わしは見習いでも鞍馬の天狗や。鞍馬山に悪さなどせん」 「そうじゃ。女、下手な言掛りをつけるな」 千鼓は、丸坊主の地面を指さした。 「してるやん」 草まみれの天狗は言い訳を探す。 「それは山菜摘みを手伝ったからなっただけで、初めっから悪さをするつもりはあらへん」 千鼓はしゃがむと、散らばった草から山菜を拾い出した。 「お婆ちゃんはいっつも言うねん。山菜を必要以上に摘んだらあかん。草も雑草だと思って 荒らしたらあかん。山のもんを分けてもらってるっちゅう事を忘れたらあかん。て」 天狗も央羽を腰に挿すとしゃがんで散らばった草から山菜を拾い出した。 「央羽、なんで他の草まで刈るんや」 「鎌鼬(かまいたち)で他の草をあおげば刈ってしまうのは当然の事でございまして」 千鼓は、羽団扇と言い合いをしている天狗に言う。 「ちょっと、聞いてんの」 天狗は言い合いをやめて千鼓に言った。 「ちゃんと聞いとる。人界のもんが鞍馬山の事言うとは思わへんかった」 天狗は山菜を拾うと、草だけになった部分を羽団扇であおいで、丸坊主になっている地面 に飛ばした。そして手の中の山菜を籠へ入れようとした時、千鼓が止めた。 「それ山菜やない。籠に入れたらあかん」 天狗は手の中を確認して言う。 「いや、全部山菜やで」 千鼓は、天狗の手から蔓状の草をとった。 「これはちゃう」 「いや、これも山菜や。「シオデ」っちゅうて、わしらは食うとる。根っこは鎮痛薬にもな る」 千鼓は、疑り深い目で天狗を見る。 「本当に?」 「持って帰って婆に聞いてみぃ。珍しい山菜やで、婆はきっと喜ぶで」 千鼓は少し信じたようで、蔓を見ながら言った。 「珍しんやったら、お婆ちゃん、この山菜知っとるやろか」 天狗は、草と山菜を分けながら言う。 「婆はわしらと同じ山育ちや。知っとるはずやで」 「ふーん」 千鼓はシオデを籠にいれると、また草と山菜を分け始めた。 「天狗様は、なんでお婆ちゃんの事知っとるの?」 「婆の事、知っとるんは愛宕の爺(じい)や。わしは爺に頼まれてるだけや」 「愛宕の爺?」 天狗は仕分け作業に慣れているのか、千鼓より早く草と山菜を区別して籠の中に入れてい く。 「愛宕山に住んどる大天狗や」 草だけになると、羽団扇で丸坊主の地面に草を飛ばす。 「去年、爺が鞍馬山に来た時に偶然に婆を見つけたんや。昔、つき合(お)うとったんやけど 別れたんやと。爺は奥に先立たれて一人やったで、また婆にプロポーズしたんやけど振ら れたって言うとった」 「それ本当の話?」 「本当やろ。爺、また振られた。て泣いとったで」 千鼓は、天狗の話が面白くて聞くのに夢中で手の動きがゆっくりになっている。 「昔そんな事があったんや……」 天狗は話をしながら、千鼓の前に残っている草の山を片付けるために、千鼓に近づいて千 鼓と肩をくっつけた。 「わしに婆の膝の薬を頼むで、爺はまだ婆の事、好きなんやと思う」 「うん。お婆ちゃんも膝の薬をもらうで、そのお爺ちゃんの事まだ好きなんやと思う。お婆 ちゃんも一人やで、一緒になればええのに」 天狗は、ついに千鼓の前にあった草の山も片付けてしまった。羽団扇で草を飛ばしながら 言う。 「なんか昔、二人が別れてから爺の父上が二人の仲を許して、爺が急いで婆を迎えに行った んやけど、婆は引っ越したあとでどこへ行ったか判らなかったらしい。わしらには千里眼が あるで、見つけれん事ないんやけどな」 千鼓が手の汚れを払いながら立つと、天狗も一緒に立ち上がって千鼓と一緒に川へ行き手 を洗う。 「千里眼って何?」 千鼓はハンカチで手を拭くと、天狗にハンカチを渡した。天狗も手を拭く。 「遠くを見る能力や。高い所に登れば、遠くに落ちている百円玉も十円玉も見えるんや。 よく拾うんは一円玉やけどな」 「拾ってるんや……」 千鼓は天狗からハンカチを受け取りながら呆れる。 「まあな。ていうか、んな事今はどうでもええ」 二人は川原の適当な石に座ると、そのまま話しだした。 「ふーん。そんで天狗様はお婆ちゃんの事知っとるんや」 天狗は懐から先ほどの紙袋を出して、千鼓にゼリーの砂糖菓子を見せた。 千鼓は今度の勧めは拒否せずに菓子を摘まんで口に入れる。 「これ本当に美味しいわ」 「そうやろ。母上が作る砂糖菓子はめっちゃうまいんや」 「天狗様のママが作ったんや。凄いね」 「そうか。なら遠慮せず、どんどん食え」 天狗も菓子を口に入れると、満足な表情で菓子を食べている千鼓の顔を見ながら微笑んだ。 ◇ 千鼓と匡政が仲直りをして川原で雑談を楽しんでいる頃。 天狗の里も何事も無く平穏無事に時が流れていた。 ただ、左鳴だけが物思いに耽りながら門の屋根の上で琵琶を奏でている。左鳴の陰々滅々と した気分とは正反対に、琵琶の調べは鞍馬家の平和を象徴するかのように温和な音となっ てゆっくりと辺りに響いていた。 早紀は左鳴の琵琶の調べを聴きながら、私立小学校に入るための受験勉強をしている。 そこに頼子が紅茶を持って部屋に入って来た。 「早っちゃん、お勉強はどう? 分からない所ある?」 「ううん、ない」 早紀の勉強机はまだ無く、早紀は高価そうな貝細工のある卓袱台の上で問題集を広げて勉 強をしている。 頼子は問題集の横にお盆を置くと、紅茶をカップに注いだ。 「そう。分からない所があったらちゃんと言うのですよ」 「うん」 頼子は早紀の所に紅茶を置き、自分の紅茶を一口飲むと、部屋に届く左鳴の琵琶の調べに 瞳を閉じた。 早紀はそんな頼子の表情を覗き込みながら口を開いた。 「母上。早紀ね、お願いがあるの」 頼子はすぐに目を開ける。 「あら、今までお願いなんてした事がなかったのに、何かしら。今流行の魔法少女の杖が欲 しいの。それともお洋服。遊園地に行きたい? 早っちゃんの初めてのお願い事だから、な んでも聞いてあげますよ」 「でも、やっぱり……」 頼子の言葉の中に早紀の望みのものが無かったらしく、早紀は口篭ってしまった。 早紀から話し出す事すら珍しいため、頼子は早紀の思いを聞き出すチャンスとばかりに聞 く。 「いいのよ。初めの一つだけはなんでも聞いてあげるから、言ってごらんなさい」 「本当にいいの?」 頼子を見上げる早紀の子供の瞳には一点の曇りもない。 「うん、いいのよ」 頼子は自分の言葉を信じてもらうために、可愛い我が子早紀の瞳を見て頷いた。 早紀は問題集に視線を落とし少し考えてから、また頼子を見上げて言った。 「早紀、琵琶したいの」 早紀からは想像がつかなかった単語に、頼子は戸惑って早紀の言葉を繰り返した。 「びわしたい!? びわ、枇杷、琵琶……」 頼子は、左鳴の調べを聞いてやっと早紀が言った単語にたどり着く。 「琵琶を習いたいのね」 「うん」 頼子は少し考えてから言った。 「琵琶を習う事は反対しないけど、琵琶って結構大きい楽器なのよ。今の早っちゃんに持て るかしら」 左鳴の調べを聞きながら考え込む頼子は、何かを思いついて掌の上に拳を落とした。 「そういえば、里には免許皆伝の師範がいるじゃない。その人に聞けばいいのよ」 早速立ち上がった頼子を見て、早紀はまた口を開いた。 「母上、早紀も一緒に行く」 頼子は、いつもより行動的な早紀の様子に驚きながらも、にっこり微笑んで早紀に手を伸 ばした。 「そうね。早っちゃんが琵琶を持てるかどうか見たいし、一緒に行きましょう」 そう言って早紀と手を繋ぐと頼子は西の部屋をあとにした。 もう気づいているかもしれないが、頼子が言っていた免許皆伝の琵琶の師範とは、左鳴の 事である。少し前、早紀に冷たい言葉を投げたことで左鳴が鬱になっていて、気分を紛らわ すために琵琶を奏でている事は、当然頼子は知らない。 頼子は早紀の願いを叶えるべく颯爽とした足取りで門の所に現れた。 頼子の姿に気付き左鳴の撥の動きが止まる。頼子に手を引かれて歩く早紀の姿を見て左鳴 の背中に冷たいものが走った。鞍馬の天狗の間では、頼子の我が子の溺愛振りは有名である。 室内着を着て歩く二人は、どう見ても門を通って出掛けるようには見えない。他に考えられ るのは頼子からのお小言だろうか。 左鳴は、頼子が薙刀を持参してこなかったのが唯一自分への救いだと思い、琵琶を屋根の 上に置くと潔く腹を決めて屋根からに飛び降りた。体を震って羽に空気を含ませ、綺麗に身 なりを整えて、丁重な趣で頼子と早紀を迎えた。 頼子は目の前に現れた左鳴にすぐに近づく。 「左鳴、ちょうど良い所に。貴方はいつも門の近くにいるから、探す手間が省けて本当に助 かるわ」 左鳴は会釈する。 「何か御用でしょうか?」 「実は早紀の事なんだけど……」 やはりそうかと、左鳴はどんな叱責でも受ける覚悟で、頼子が続けて言う言葉を待った。 「この子、琵琶を習いたいらしいのよ。左鳴、この子の先生になってくれないかしら」 予想外の展開に、左鳴は叱責よりも強い衝撃を受けて、体を支えている膝の力が抜けそう になる。 「門番の私がですか?」 「貴方は真面目だから、他の誰よりも安心して早紀を預けられるのよ」 今の頼子の頭に、琵琶が早紀の体に合うかどうかという疑問はなかった。免許皆伝という 良質の先生を愛娘の早紀につけるために、頼子は左鳴を口説き落とす事に集中していた。 「しかし、私のような堅物が教えては、返って早紀様のためにならないと思いますが」 そういえば、早紀にも人の好みがあったと思い、頼子は早紀の顔を見た。 早紀は頼子の考えを読み取って、首を横に振る。 頼子は早紀の返事を確認すると、鞍馬天狗現当主の妻である事を含めて強気の姿勢で左鳴 に言った。 「そんな事はありません。それに、里にいる天狗に教えてもらえるなら、天狗の子である早 紀の身も安全でしょうし、早紀本人も安心でしょう。ね」 頼子の言葉に、早紀は嬉しそうに頷いた。 早紀の笑顔の頷きを見て、左鳴はついに承諾をした。 「分かりました。こんな私で良ければ琵琶をお教え致しましょう。ただし、私からの条件が あります」 「どんな条件なの?」 簡単に承諾しない左鳴の態度に、頼子と早紀の繋いでいる手に汗が滲む。 「早紀様が今お勉強されていらっしゃる私立の小学校の受験に合格する事が条件です。早紀 様の琵琶は、入学のお祝いに私がご用意させて頂きます。ですから、琵琶のお稽古は入学後 という事になりますが、よろしいですか?」 左鳴の条件は頼子の思いと同じだったため、頼子は安心して肩の力を抜いた。 「ええ、是非それでお願いするわ」 力の抜けた頼子の手を早紀は振り解いた。走り寄って左鳴の腰に抱きつく。 「左鳴、有難う。早紀、嬉しい」 早紀の姿を見て、頼子は笑う。 「イヤだわ。この子ったら、もう合格した気でいるわ」 左鳴は早紀に言った。 「本当に私などが早紀様に琵琶を教えてもよいのですか?」 早紀は左鳴を見上げる。 「うん。だって、左鳴の琵琶の音は鞍馬の川と同じ音なんやもん」 「早紀様、いろいろ申し訳ありません」 「なんで謝るの? 褒めたのに」 左鳴は思う。川の音は、流れが当り少しずつ岩や川底を削りながら低く轟く。相手の表面 を削ってしまうような琵琶の音は決して褒め言葉になっていないのだと。早紀は、まだ子供 だからそういう細かい事に気付かないのか、それとも幼い心は素直に川と左鳴の琵琶の音が 同じ音だと感じてしまったのか。左鳴は考えながら、複雑な心境で早紀の言葉を受け止めた。 「わし……、いえ私は、早紀様からお褒めのお言葉を頂ける立場ではありませんゆえ」 早紀は清流をイメージして左鳴の琵琶の音を褒めているのかもしれないが、左鳴はお叱り を受けている気持ちで返事をする。 「早紀がええって言うたらええの」 「はい」 左鳴の神妙な返事を聞くと、早紀は笑顔のまま頼子と手を繋いだ。頼子に手を引かれ歩き ながら早紀は振り返り左鳴に小さな手を振る。 左鳴は早紀を見送りながら呟いた。 「お小さいが、侮れんお方だ」 左鳴の腰から同じく早紀を見送りながら羽団扇の貞羽は言った。 「そう思われるなら、早紀様にお手をお振りになったほうがよいですぞ」 「ん? ああ、そうだな」 左鳴が手を振ると、早紀は満足して前を見て歩き出した。 頼子は、まだ笑顔を続けている早紀に言った。 「断られそうだったけど、良かったわね」 「うん。母上、有難う」 頼子と早紀は微笑み合う。 「そうそう、ゼリーの砂糖菓子を作ったのよ。早っちゃんの分もあるから部屋に帰るついで に菓子棚から取って行きましょう」 「うん」 屋敷の中に入り頼子が台所の菓子棚を開けるが、そこに早紀の分の砂糖菓子が無い。 「あら、無いわ」 反対側の扉も開けるがやはり無い。 「沢山作って袋に小分けしたはずなのに」 頼子は作った数を確認する。 「先に侍女達にあげた時には、匡君と早っちゃんの分がちゃんと二つ残っていたのに……」 頼子の頭に前科のある者の顔が浮かび、棚の中を探していた手の動きが止まる。 早紀はどうしたのかと思い母頼子を見る。 「母上?」 「もしや……」 頼子は一言呟くと、早紀をその場に残し台所を飛び出した。途中にあった長箒を掴み屋敷 中央の部屋に駆け寄ると、力強く障子を開けた。 「あーたー」 机に向かい筆で書き物をしていた鞍馬天狗定孝にはそう聞えた。障子を開けた頼子を驚い て見るが、掴んでいる長箒を見ると余裕有り気に口を開いた。 「どうした、頼子」 「あなた、また匡君と早っちゃんのおやつを食べましたね」 定孝はそんな話しかと思い硯に筆を置く。 「いや、今日はゼリーの砂糖菓子だったで食うておらん」 「砂糖菓子を知っているところをみると、やはりあなたはおやつに手を出したのですね」 部屋に踏み込んだ頼子を見て、定孝は立ち上がった。 「千里眼で作っておるところを見ただけじゃ。今日は食うておらんぞ」 「でも、菓子棚にあったおやつは無くなっておりましたわ」 頼子は定孝に歩み寄るが、定孝は頼子と距離をとりながら座敷机の周りを歩く。 「本当に今日は食うておらん。きっと匡政が食ったんじゃ」 「匡君はご飯はよく食べるけど、おやつはいつも残すのよ。二袋も食べれる訳ないでしょ」 言い合いをしているうちに、頼子と定孝は座敷机を一周する。 「お前は夫であるわしの言葉が信じられんのか」 「あなたには、バームクーヘン、シュークリーム、ミルフィーユを平らげた前科があるので す。今日のおやつの事も既にご存知ですし、信じられる訳ないでしょ」 頼子と睨み合う定孝の体の周りで風が起こる。 「無実の夫を犯人扱いするとは妻の風上にも置けん。今日こそは、こってりと油を搾り取っ てやるから覚悟いたせ」 「それはこちらの台詞ですわ、飽く迄も嘘を貫き通すおつもりなら、容赦致しません」 頼子は長箒を振り回して、準備運動がてらに薙刀の型を一通りこなすと身構えた。 定孝は鼻を鳴らして笑う。 「薙刀の無いお前など恐るに足らん。わしの神通力で封じ込めてやるわ。泰羽、我が手に来 い」 しかし定孝の掌に泰羽は乗らない。不審に思い団扇立てを見ると、そこに泰羽の姿がなか った。定孝の顔色が変わる。 「泰羽、どこじゃ。どこへ行った?」 焦って辺りを見回す定孝に、弱々しい泰羽の声が聞えてきた。 「定孝様、申し訳ありませぬ」 泰羽の声は頼子の背中から聞える。 「頼子様に捕まってしまいました」 羽団扇の泰羽は頼子の背中の帯に深く挿し込まれていた。 「なんじゃとぉ」 驚愕する定孝を見て、頼子は高笑いをする。 「あなた、この私を誰だとお思いですか。私は鞍馬天狗現当主の妻ですよ。鼻に妻として印 を頂いた私は、あなたと対等の立場であることをお忘れになったのですか」 そういうと長箒を振り上げた。 ◇ 右鳴は、また弾き始めた左鳴の琵琶の調べを聞きながら、門の近くの壁にもたれていた。 先ほど早紀の事を思って左鳴にきつい言葉を投げてしまったが、天狗の里を守る門番は扉同 様に門を通る者を静かに見守らなくてはならない。昔ながらの仕来りを守っている左鳴に、 説教じみた事を言ったのは本当に良かったのかと思い悩んでいた。 右鳴の腕の中にいる侍女は、沈んだ表情をしている右鳴の頬に手を当てた。 「今日はお元気がないのですね。何かあったのですか?」 右鳴は虚ろな目を侍女に向ける。 「烏の顔でも表情が判るのですか?」 侍女は左鳴の肩に頭を乗せながら頬に生えている小さい羽を触る。 「烏天狗の時も、人の時も、右鳴様の事は判ります」 「そういうものなのかな」 右鳴は烏天狗の姿から人の姿へ変身した。十四の時に門番の称号である右鳴の名を継ぎ今 年で三年目の十七歳。若いだけでなくハンサムでもある右鳴はとてもよくもてた。髪型も普 段着も流行ごとに変え、更につき合う女もコロコロと変える彼が門番として右鳴の名を継げ たのは、生まれながらにして門を守るために必要な並々ならぬ能力を持っていたからであっ た。 侍女は、現れた右鳴の人の顔に引き続き手を添える。 「右鳴様のお顔を、また拝見出来て嬉しゅうございます。忍んで来た甲斐がありましたわ。 今日はお菓子を持って参りましたの。ご一緒に食べませんか?」 侍女が懐から出したゼリーの砂糖菓子を、右鳴は一つ摘まんで眺めた。 「皆は私の顔をよく褒めてくれますが、片思いの相手にこの顔は全く通じないんですよ」 「右鳴様を袖にするなんて、きっとその方は眼がついていないのですわ」 右鳴は苦笑する。 「確かに眼が無いのかもしれませんね」 侍女を引き寄せて体を密着させる。 「こんな私を、貴女は慰めてくれますか?」 「私で良ければ」 右鳴は返事を聞くと、星型のゼリーを咥えて侍女に顔を近づける。 侍女は瞳を閉じると口を半開きにして右鳴が咥えているゼリーを待った。 ゼリーは侍女の口に届き侍女がゼリーを咥えた時に、右鳴は突然侍女から離れた。 侍女は驚いてゼリーを口に含みながら眼を開く。 「右鳴様、急にどうなされたのですか?」 見ると、右鳴は暗雲が広がる空を見上げていた。 侍女も空の暗雲に怯えた表情をする。 「この雲はもしや……」 「定孝様がお怒りだ。雷から門を守らねば」 右鳴は烏天狗に変身すると腰の羽団扇を掴んだ。侍女を抱え羽団扇を素早くあおいで飛び 上がる。雲の中の雷鳴を聞いて、右鳴は更に羽団扇をあおぐと塀の上で侍女を手放した。 「風で屋敷まで送ります。稲妻が降り注ぐ前に中へ入って下さい」 「右鳴様」 侍女は浮かぶと風で一気に屋敷まで運ばれていく。右鳴はそれを見届けると、左鳴がいる 門の屋根へ向った。 左鳴は立ち上がって琵琶を掴んだまま空を見上げていた。渦巻く暗雲に目を凝らしながら、 横に降り立った右鳴に言う。 「遅いぞ」 「すいません」 左鳴は琵琶を大事に抱えながら言う。 「昨日、頼子様が散々お怒りになったゆえ、今日は何事も起こらぬと思っておったが、抜か ったわ」 「私も匡政様が先ほど塀を越えて行かれたので、今日は何事も起こらないと思い気を抜き過 ぎておりました」 それを聞いて左鳴は右鳴の顔を見た。 「では、定孝様を怒らせたのは一体誰なんじゃ」 右鳴も左鳴の顔を見る。 「頼子様が相手だと、雷が鳴る前に定孝様は成敗されるでしょうし、火つけ役の匡政様は今 はいないし、他の誰が定孝様を怒らせたのか見当がつきません」 左鳴は腰の羽団扇を掴んだ。 「定孝様は何を怒っておられるのか。判らぬ。判らぬが、この暗雲では考えてる暇も無い。 すまぬが、雨が降る前に琵琶を屋敷へ置いて来るゆえ、それまで一人で門を守っていてくれ ぬか?」 「はい、一人でなんとか門の結界を支えますから、すぐに行って下さい」 左鳴は羽団扇を掲げる。 「貞羽、屋敷まで一気に飛ぶ。定孝様の気に飲まれるなよ」 「おう」 左鳴が羽団扇を一振りした時に、突然、屋敷の中心から定孝の絶叫が響き渡った。 それを聞いた左鳴の羽団扇の動きが止まる。 「もしや、相手は頼子様なのか」 右鳴が空を見ながら言う。 「あ、暗雲が晴れてきました。どうやら頼子様のようですね」 左鳴の腕の力が抜け、羽団扇がゆっくりと下がる。 「負けると判っていて何故(なにゆえ)定孝様は頼子様に挑まれたのか」 右鳴は焦って流した汗を羽団扇であおぐ。 「また新しい策でも思いついたのでしょう」 「策か。なんであれ、連日喧嘩をされては、こちらの身が持たん」 「確かに」 左鳴は一息つくと羽団扇をまたあおぐ。 「暫くは警戒が必要だな。今のうちに琵琶を置いてくるか」 言うだけ言ってからクスリと笑うと、風の渦を小さく作って、渦を右鳴の顔に目がけて飛 ばす。 「わっ、左鳴何をするんですか」 右鳴が羽団扇であおいで風の渦を払っていると、左鳴は笑顔で言った。 「お前に叱られたゆえ、早紀様に謝っておいたぞ。だからお前も、私が戻ってくる前に、口 についている紅をちゃんと拭いておけよ」 右鳴は慌てて嘴を手で覆う。 左鳴は大笑いすると羽団扇で風を起こし空へ飛び立った。 「左鳴に言い過ぎたと思っていましたが、杞憂だったようですね」 右鳴は、黒い翼を広げて飛ぶ左鳴を見上げ、紅がついた口を拭いながら左鳴を見送った。 ◇ その頃、匡政と千鼓は川原の石に座ってゼリーの砂糖菓子を食べながら他愛の無い会話を していた。話題はどんどん移り変わり袋の中の砂糖菓子もなくなり、それでも二人は時間が 経つのも忘れて話し込んでいた。 「そうか。お前は名を千鼓というのか。わしは匡政だ。歳はいくつだ?」 「六歳。誕生日が来ると七歳。小学一年生だよ」 「わしと同じ歳か」 「え、同じ歳なん。天狗様小さいし、泣き虫だからもっと下かと思った」 「泣き虫は当っておりますな」 腰の央羽にも言われ、匡政はムッとした表情をする。 「わしは泣き虫やない。いつもは泣かぬ。お前は天狗の修行がどんなもんか知らんから言う んじゃ」 千鼓は俯き、匡政に聞えないように呟く。 「さっき、菓子食べん。て泣いとったくせに」 天狗は、汚名返上のため力説する。 「それに学校では列の真ん中辺りや。小さくもない」 千鼓は顔を上げて驚いた表情をする。 「え、学校行っとるの。天狗様いたっけ。何組なん?」 匡政は爪先を開いたり閉じたりして下駄を当てて遊びながら答える。 「鞍馬小学校やったら行っとらんで、わしはおらんで」 「じゃあ、どこの小学校なん?」 「京都小学校や」 千鼓は怪訝な表情をする。 「そんな小学校、聞いた事ない。京都がついとるなんて変や」 それは大学の付属小学校だったりする。 「婆(ばば)か千鼓の母上なら知っとるやろ。帰ったら聞いてみぃ」 匡政は立ち上がった。 「ちと話し過ぎた。日が沈みそうや。帰るで」 しかし、千鼓は立ち上がらない。 「イヤや。もう少し天狗様と話したい」 「あかん、婆が心配する」 匡政は山菜が入った籠を担ぐ。 「かなり少なくはなったが、今でも暗くなると悪いもんが出てきてウロウロするんや。奴ら は千鼓みたいな女が大好物やで、こんな所におったらすぐに食われるで」 それを聞いて千鼓は立ち上がった。 「か、帰る」 匡政は千鼓の手を掴んで引いた。 「麓まで送る。早う歩んやで」 千鼓は、引っ張られて歩きながら横や後ろを見る。 「もしかして、もうなんか来とるの?」 「まだ来とらん。日が暮れる前に森の外に出れば大丈夫や。奴ら森の外までは追わんで」 それを聞いて千鼓は普通に歩きだす。 「なんやビックリした。驚かさんといて」 「驚かしたんと違う。本当の事言うたんや」 魑魅魍魎の知識が無い千鼓は匡政の心配が分かる訳もなく、真面目に言う匡政の顔を見て 少し笑いながら、強く握る匡政の手を握り返した。 「天狗様、ちょっと聞いてもええ?」 「なんや」 「なんで学校へ行くん?」 「わしの曾々(ひいひい)祖父(じじ)達が人界のもんと混じって暮らすって決めたからや。でも、天 狗の事は内緒やで誰にも言うんやないで」 「誰にも言わん。お婆ちゃんにも言われとるし、どうせ言うても誰も信じへんわ」 匡政は何を思ったのか、急に昔の話をしだした。 「ずっと昔の話やけど、天狗と人界のもんは仲良かったんや。天狗は人界のもんに妙薬を分 けたり、武術を教えたりしておった。武術を習う人界のもんの中にも多少神通力が使えるも んがおって、その内の何人かが天狗の術を使って悪さをするようになったんや。天狗達で悪 さをしたもんを取り押さえたんやけど、人界のもんが天狗の力をえらく恐れて、天狗の里を 焼討ちしたんや。それが切っ掛けで争いが起きて天狗と人が仰山死んだらしい」 「そんな事が昔あったんや」 「それだけやない。山に流れた沢山の血のせいで里の周りに魑魅魍魎が集まるようになって もうて、その魑魅魍魎とも戦わんといかんようになって、もう里には天狗以外は近づけんよ うに何重にも結界が張ってあるんや」 悲しい過去の話しで言葉を無くした千鼓を見て匡政は付け加えるように言った。 「昔の事やで今は里が襲われる事はなくなったけどな」 しかし、それでも千鼓の沈んだ表情は直らなかった。千鼓の小さい心に争いの悲劇が鋭い 物となって突き刺さったからである。 二人は話さなくなり、黙って手を繋いだまま薄暗い森の中を急ぎ歩いた。森の終わりが見 えた時、匡政の腰で央羽の羽が小刻みに震え出した。 「匡政様」 「判っておる」 千鼓が不審がって聞く。 「どうしたん?」 「どうやら来たらしいんや」 匡政は、背負っていた籠を千鼓に渡した。 千鼓は、籠を受け取りながら言う。 「何が来たん?」 「なんやろな。まだ見えんで判らんが、わしらのあとをつけて来ておる。そや、これ婆の分 の菓子。ゼリーは柔らかいで歯が悪くても食べれると思う」 匡政は懐から新たに菓子袋を出した。どうやら頼子が探していた早紀の分の砂糖菓子のよ うだ。それを千鼓に渡すと、腰の羽団扇を掴んだ。千鼓の背中に移動した籠を押す。 「もう麓や。ここから先は一人で行くんや」 「天狗様は?」 「わしも里へ帰る」 匡政は、立ち竦んでいる千鼓を一あおぎした。 「危ないから早よう森を出るんや」 千鼓は羽団扇から出た風に押されて歩きながら言った。 「天狗様、また遊びに来てぇな。今度はラムネいっぱいあげるから」 そう言うと一目散に走り出した。 匡政は千鼓が森の外へ出たのを確認すると、羽を震わせている羽団扇の央羽を強く握って構え た。 「強そうやな」 「はい、かなり強い霊力を感じまする」 匡政が鋭く睨むと、相手は気付いたのか山道を反れて木々の中に入った。動きは直線的で なく大きく蛇行してゆっくりと左右に動きながら、確実に距離を縮めて来る。距離が縮まる たびに、相手から発する霊力が空気の厚い層となって、匡政の全身を包んで押しながら通り 過ぎて行く。 「動きはこの前に遭遇した川獺(かわうそ)に似ておりますな」 「似ておるが、川獺は霊力でなく妖力のほうじゃ。それに川獺とは段違いの強さや。まとも にやり合って勝てる相手やない。ええか。相手の姿が見えたら、顔の前で猫騙しをして、相 手が怯んだ隙に逃げるで」 「はっ」 更に相手との距離が縮まり、枯れ枝を踏む音と鼻の奥が鳴るような呼吸が聞えてきた時、 黒い毛むくじゃらの大きな巨体が匡政の前に現れた。口から涎(よだれ)を垂らしながら四本 足で右に歩き、Uターンすると左に歩き、楕円を描きながら少しずつ匡政に近づいて来る。 「あかん、鬼熊(おにくま)じゃ。山神である鬼熊を怒らせたら空と山が荒れる。猫騙しはなしや」 「いつもは山奥にいるのに、なぜ麓まで降りて来たのでしょうか」 「さあな」 匡政は腕の力を抜いて羽団扇を下ろした。 「鬼熊、山奥へ戻ってくれへんか。ここは人界に近過ぎる。人に見つかると厄介な事になるで」 鬼熊は立ち止まった。 〈天狗 もう娘は喰ったのか? まだならよこせ お前にはもったいない〉 「匡政様。あの鬼熊、既に人肉を喰らい正気をなくしておるようです」 匡政は下したばかりの羽団扇をまた構え直す。 「神にも等しいお前がなんで人肉を食らったんや」 鬼熊は舌なめずりをする。 〈良い匂いがする 甘い味がする 新たなる力が得られる〉 「それは負の力じゃ。お前は悪い鬼熊になってしもうたんやな」 〈あの娘も良い匂いがした 食い止しでも良い 娘の肉をよこせ〉 「匡政様。この鬼熊は、話が判る状態ではありませぬ。逃げましょう」 「逃げるにしても、この鬼熊の事を父上に知らせて退治しないと、鞍馬山が大変な事になる」 〈退治 退治 退治だと この鬼熊であるわしを退治するだと〉 鬼熊は二本足で立ち上がった。 鬼熊が立ち上がっただけなのに、匡政は羽団扇を構えたまま後退りをする。 「なんちゅう霊圧や」 「これ以上後ろへ下がると人界に鬼熊を招くことになります」 「そんな事判っとるわ」 日が翳(かげ)り薄暗くなった森の中で、鬼熊は手先から伸びる爪を白く浮き上がらせながら、 上体をゆっくりと左右に揺らして匡政を見下ろした。 〈大人しく娘の肉をよこせ さもなくば お前を喰うぞ〉 二本足で歩き出した鬼熊を見ながら、匡政は央羽に小声で言う。 「皆に知らせるために天狗風を里に飛ばす。よいか、砂ごと巻き上げて飛ばすんだぞ」 「はっ」 匡政は腰にある天狗の面を顔につけた。 「砂が鬼熊の眼に入ったら、わしらは風に乗って里まで飛んで逃げるで」 「心得ました」 「行くで」 匡政はX字を描くように羽団扇をあおぐと、足元から風が巻き起こり渦となって匡政の周 りを取り囲んだ。 「央羽、煽ち風(あおちかぜ)を鬼熊に」 「おう」 煽ち風とは、風の勢いで物を吹きたてて揺れ動かす風である。 風は匡政から離れると激しく吹き荒れて鬼熊を取り巻いた。 しかし、子供の匡政の考え通りに物事は運ばない。 鬼熊は煽ち風の中でも悠然と構えている。 〈愚か者 この程度の風で この鬼熊をどうにか出来ると思ってか〉 鬼熊の霊力に押されながら、匡政は羽団扇をあおいで煽ち風を操る。 「悪い鬼になっても、やっぱり鬼熊は山の神様や。煽ち風ではビクともせん。央羽、黒風(こくふう) を作るぞ」 「黒風は匡政様の神通力ではまだ無理です。先に定孝様に知らせるべきです」 「知らせの風も煽ち風のように押さえ込まれる。伝(つて)を出すなら鬼熊の気を逸らさないと。 小さくてもよい、黒風を」 「どうなっても知りませぬぞ」 「その時はその時だ」 匡政は羽団扇をあおいで渦を作ると、その渦を更にあおいで黒風を作り出した。 黒風とは暴風。その名の通り周りの物を巻き込んで日の光を遮り黒くなって吹き荒れる風だ。 「小さい黒風なのになんちゅう威力だ」 黒風の激しさに匡政は腕を持っていかれそうになる。 「匡政様しっかり」 鬼熊に向けて羽団扇をあおいだ。 「黒風を鬼熊へ」 央羽も黒風を操るのはきついらしく、返事が唸り声になる。 「うおぉぉ」 黒風は砂を巻き込みながら黒い風となって鬼熊に吹き荒れた。 鬼熊は少しよろめく。 〈大した風ではないが こう黒くては前が見えん〉 「鬼熊の霊力が弱まった。今じゃ」 匡政は縦に羽団扇をあおぐ。 「央羽、知らせの風じゃ。疾風(しっぷう)で鬼熊の事を里へ伝えるんじゃ」 「はい。疾風よ、我らの言葉を里の仲間の元へ」 羽団扇から出た一筋の風は鬼熊の横を通り過ぎて、木々の間を通り抜けて空へ昇った。同 時に匡政は走り出す。 「腕が痛い。黒風のせいで腕が引っ張られて千切れそうや」 「黒風を早くやめないと本当に腕が千切れますぞ」 鬼熊は手探りで前に進んでいる。 匡政は鬼熊を避けて山道を走り里へ向う。 「匡政様、私の羽も限界です。黒風を消して下さい」 「我慢せい。今黒風を消したら前が見えるようになって鬼熊が向ってくる。もっと距離を取 るんや」 鬼熊は黒い風に覆われ前が見えなくてふらついていたが、腕を振り上げると大きく吼えた。 鬼熊から発せられた霊力で全ての風が消え失せる。 匡政は走りながら握っている央羽を見て言った。 「あの鬼熊、悔しそうに鳴いておるぞ。それに急に腕が楽になった。わしの神通力が成長し たんやろか」 央羽は匡政の後ろを見ながら悲鳴を上げる。 「何をおっしゃっているのですか。鬼熊が黒風を消したから腕が軽いんですよ」 「なにぃ」 振り返ると鬼熊が四本足で走り匡政を追いかけて来ていた。 〈怒った この鬼熊を馬鹿にしおって 絶対にお前を頭から食ってやる〉 匡政も必死で走るが子供の足で逃げ切れるはずもなく、鬼熊はどんどん追いつき近づいてくる。 匡政は痛む腕で羽団扇をあおいだ。 「追いつかれる、飛ぶで」 背中の翼を広げ風に乗って飛んだものの、腕の痛みであおぎ方が足りず途中の枝に降り立った。 鬼熊はその木の幹に来ると、前足の爪を刺すようにして木をよじ登る。 〈愚か者 まだ自分の翼で飛べぬのに この鬼熊を怒らせたのか〉 匡政は、木を登る鬼熊を見て更に上の枝へ飛ぶ。 「こうなったら出来るだけ上まであがって、滑空して距離を稼ぐか」 「そうですな」 匡政は木の上にたどり着くと、腕の負担にならないように羽団扇であおいで風を起こし、 翼を広げて枝から飛び立った。 「これなら逃げ切れる」 自分で起こした風に乗り緩やかに滑空しながらホッと胸を撫で下ろした。 グライダーのように飛ぶ匡政を見て、鬼熊は鼻に皺を寄せて怒った。 〈許さぬ 許さぬ 許さぬ 逃がしてなるものか〉 大きく息を吸い込んで胸を膨らませると匡政に向って吼えた。怒りにより口から出た鬼熊 の咆哮はただの咆哮ではなかった。空気の固まりと化した咆哮は、一直線に匡政へ向って進 み、飛んでいた匡政の背中に命中した。 「がはぁっ」 匡政の翼から黒い羽が飛び散る。 「匡政様、お気を確かに。このまま落ちたら危険です」 匡政は背中を撃たれたショックで呼吸が出来ないらしく、苦しそうに胸座を掴みながらニ、 三回羽ばたいたが、意識を失うとそのまま落下した。 「匡政様!」 森の中で央羽の声が響いた。 ◇ 次の日。 鞍馬山の川原は今日も晴れていた。 千鼓は祖母と相変わらず山菜を摘みに来ていた。 千鼓は昨日家に帰ってすぐに祖母に匡政との帰り道に恐ろしい何かに後をつけられた事を 話した。天狗様に何かあったら大変だと訴えたが、祖母は天狗様なら大丈夫だと笑いながら 千鼓の話を聞いて、千鼓が感じている恐怖ごと千鼓を抱き締めて背中を優しく撫ぜるだけだ った。 昨日祖母が言ったとおり、匡政が本当に大丈夫なのか心配な千鼓は、山菜を摘みながら匡 政が来るのを今か今かとばかりに待っていた。 祖母は、千鼓が辺りを見回してばかりいて山菜摘みに集中しないので声をかけた。 「天狗様は気紛れ者だから毎日来るとは限らないのよ」 「そやけど、お婆ちゃん……」 「天狗様には神通力があるから、そんなに心配しなくていいのですよ」 「……う〜ん」 千鼓は、返事なのか悩み声なのか分からない声を出しながら、山菜ではなく近くに生えた 雑草をいじっている。 祖母は山菜すら触らなくなった千鼓を呆れた表情で見てから、何を言っても千鼓が山菜摘 みに集中しないので、千鼓の事は放っといて一人で山菜摘みをする事にした。 千鼓はずっと待っていたが、その日は結局匡政は来なかった。 次の日。千鼓は今日こそは来るだろうと思い、ラムネ菓子を二人分持って山菜摘みに来た が、匡政は来なかった。 匡政は、次の日も次の日も来なかった。 「天狗様、今日も来うへん」 本日の山菜摘みは、千鼓の機嫌が悪く怒りを露わにして山菜を摘んでいるせいで、籠の中 はいつもより多くの山菜が貯まっていた。 ムキになって山菜を摘んでいる千鼓を見ながら、祖母は笑顔で言った。 「来ない時は一ヶ月どころか何年経っても来ないから、天狗様の事は気にしないほうがいい よ。天狗様と私達とは住んでる世界が違うの。生活習慣も考え方も違うし、千鼓が心配する 事も天狗様には心配する事じゃない時もあるのよ」 「天狗様ってなんなん。全然分からへん。考えると腹が立ってくる」 千鼓は立ち上がり周りを365度見回した。見ても匡政がいる訳もなく、余計に腹が立っ てきた千鼓は空に向って大声で叫んだ。 「天狗様のバカァー」 結局、この日も匡政は来なかった。この怒りを頂点に千鼓の怒りは日を追うごとに収まり、 そして二週間以上経った頃、千鼓の口から天狗の言葉は出なくなった。 ◇ そんなある日。 天狗の里は今日も晴れていた。 右鳴と左鳴は、門の屋根の上に立っていた。 右鳴は空の彼方を眺めながら言った。 「昨日、鬼熊の調べがやっと済んだそうです。聞いた話によると、ここから北の三国岳の鬼 熊で、どうやら自殺した者の死体を食って狂ったらしく、その後すぐ福井県の天狗に見つか って狩られそうになり、烏天狗三人を殴り殺して食らった後、南の鞍馬山まで逃げて来たら しいです」 左鳴も同じように空の彼方を眺めながら言った。 「それで力を消耗し、新たなる肉を求めて鞍馬山を彷徨っていた時に、匡政様と遭遇したん だな」 「あの鬼熊、また人肉を食らい力を回復していたら、この鞍馬山はどうなっていたことか」 「全くだな」 話しているうちに空に黒い点を見つけて右鳴と左鳴は門の屋根から飛び降りた。 黒い点はお庭番の烏天狗で、お庭番は門の前に降り立つと抱えていた早紀を下ろした。 右鳴と左鳴は同時に言う。 「早紀様、お帰りなさいませ」 「ただいま」 早紀は笑顔で言うと、開いた門を急ぎ足で潜って屋敷に向って駆け出した。 「早紀様、そんなに走っては危のうございます」 お庭番はいつ転んでもいいように手を差し伸べながら早紀を追いかけて行く。 肩から提げた幼稚園バックを揺らして走る早紀の姿を見ながら左鳴は言う。 「早紀様は嬉しそうに駆けて行くな。行き先はやはり匡政様のお部屋だろうか」 右鳴も早紀の後ろ姿を見ながら笑って言った。 「多分、匡政様のお見舞でしょうね。でも匡政様は先ほど塀を越えて行かれたので、空にな った寝所を見て驚くだろうな」 左鳴は驚いて嘴を開ける。 「匡政様を何故お止めしなかったのだ。あと二週間は安静が必要だと知っておろう」 「お止めしても素直に聞く性格ではないので、何があってもいいように、お供に私の式神を つけておきました」 左鳴は羽団扇で門の扉を閉めながら言う。 「右鳴は匡政様にも甘すぎる」 右鳴の甘やかし振りをバカバカしく思い、左鳴は口から息を吐く。 「まあ、お前の式神がついているなら大丈夫か」 しばらく考えてから羽団扇を腰紐に挿した。一仕事を終え、余暇を誰と過ごそうかと考え ている右鳴を横目で見て、左鳴は呆れて口を開いた。 「普段のお前と鬼熊と闘ったお前とは似ても似つかん。お前はあの鬼熊と闘った右鳴なのか。 分身のように何体も式神を使って戦うお前を見てわしは心が躍ったのだが、今のお前を見て いると体の力が抜けてくる」 右鳴も羽団扇で門の扉を閉めながら言う。 「左鳴のようにいつも力んでいては私の体力が持ちません。鬼熊と戦った時も大変だったん ですよ。左鳴に首を刎ねられても倒れずに鬼熊が向って来るので、上級の式神を何体も使 う羽目になって、私は命を磨り減らす思いでしたよ」 「あれはわしも驚いた。定孝様が鬼熊の胴体を一刀両断にしなければ、門番が門以外の所で 討ち死にしていたな」 左鳴は真顔で言ったが、右鳴は笑いながら言う。 「龍神が雲の間からスペースシャトルを見送るこの時代、門番が門以外の所で討ち死にして も恥かしくないと思いますが」 「何を言う。訳が分からん。お前は門番失格じゃ」 左鳴はしかめっ面で自分の顔を羽団扇であおぐ。 「なぜ私が門番失格なんですか。私は夕方のデートをドタキャンして鬼熊と戦ったんですよ。 それに、匡政様の一大事だと騒いで真っ先に門を離れたのは左鳴のほうじゃないですか」 右鳴は笑いながら左鳴のしかめっ面をからかい半分にあおいだ。 ◇ 同じ頃。 川原ではいつもと変わらずに千鼓と祖母が山菜を摘みに来ていた。 天狗が来なくて苛々していた千鼓も今ではすっかり落ち着き、天狗がいつ来てもいいよう にポケットにはラムネが必ず入っている。 千鼓がお下げ髪を揺らしながら少しずつ移動して山菜を摘んでいると、夏の蒸し暑い風に 混じって冷たい風が千鼓の頬を撫ぜた。地面を見ていた千鼓の顔が上がる。 祖母もにこやかに微笑むと千鼓の顔を見た。 「来たね」 「うん」 千鼓も微笑んで頷く。一本歯下駄が川原の石を蹴ったり踏んだりする音を聞いて、千鼓は 立ち上がって振り向いた。 匡政は初めて現れた時のように、羽団扇を握り締めて細い目でじっと千鼓と祖母を見ていた。 千鼓はポケットからラムネ菓子が入った箱を取り出す。 「天狗様、ラムネ持ってきたよ」 匡政は千鼓を見ると擦傷と青アザのある顔で笑顔を作った。 「千鼓、元気そうじゃな」 「うん。天狗様、顔を怪我してる。大丈夫なん?」 「ちと痛いが、大丈夫や」 匡政は次に祖母を見るとさっそく抱きついた。 「婆、会いたかったぞ」 「お久しぶりです、天狗様」 祖母も匡政を抱き返したが、法衣の下にサポーターのような感触を感じて体を撫ぜながら 聞いた。 「天狗様、お体にも怪我をなさっておいでなのですか。千鼓から何かに追われたと聞きまし たが、もしやその時に?」 「うん。相手は鬼熊じゃった」 近くの石に腰掛けた祖母の横に千鼓も座りながら聞き返す。 「鬼熊ってなんなん?」 匡政が答える間も無く、鳩くらいの大きさの烏天狗が飛来して匡政の頭の上に降り立った。 烏天狗は咳払いをすると匡政の頭の上で口を開く。 「鬼熊とは、長生きをして様々な力を得た年老いた熊の事である。普段は大人しいが怒ると 山の天気が荒れる事から、山の神の使いといわれておる」 小さい烏天狗は言い終えると、匡政の頭の上で尾を上下左右に動かしながら頭を傾げるよ うにして千鼓と祖母を見た。 千鼓は驚いた表情をする。 「こんなに話す九官鳥は初めて見た」 「九官鳥とは失礼な!」 烏天狗は千鼓を見ると苛立ち気に尾を左右に揺らして偉そうに胸を張って言った。 「わたくしは、匡政様の護衛をおおせつかった式神である」 匡政は祖母に甘えながら、ラムネを催促するために手を出しながら言う。 「里を守る烏天狗が作った式神じゃ。鬼熊は倒されたが、わしが傷をおってこんな姿ゆえ、 一匹連れて行けと言われたんや」 千鼓は匡政の掌にラムネを落としながら言う。 「天狗様、ごめんなさい。あたしのせいや」 匡政はラムネを頬張りながら言う。 「千鼓のせいやない」 「あたしが暗くなるまで話してたから」 「いや、本当に千鼓のせいやない。わしを襲った鬼熊は福井の天狗を食った悪い鬼熊やった んや。知らせは鞍馬にも届いていたんやけど、ここまで逃げて来てるとは誰も思わんくて、 わしは鬼熊の事を聞かされておらんかったんや。知ってたら千鼓を怖い目にあわさへんかった」 祖母は膝の上に座っている匡政に言った。 「それで天狗様は千鼓を守って戦って大怪我をされたのですね」 「いいや、わしは天狗見習いや。戦うどころか逃げることすら出来へんかった。父上達が来 てくれへんかったら、わしも鬼熊に食われておった」 どうすることも出来なかった自分が悔しいらしく、匡政は涙ぐむと祖母の胸に縋り付いた。 式神は翼を広げ匡政の頭から祖母の頭へ飛び移る。 「今はお小さいのですから仕方ありませんよ。いつか立派な天狗様になれますよ」 祖母は匡政の心情を察してゆっくりと背中を撫ぜる。 「そうやろか」 「ええ、天狗様のお子なのですから」 匡政は祖母に慰めてもらいながら、千鼓がラムネを食べると条件反射で催促の手を出す。 千鼓は二人の会話を聞きながら快く匡政の手にラムネを落とした。 「天狗様のお子ならもう天狗様やん。天狗様って呼んだら返事するし。そんでええやん。何 がいかんの?」 匡政はラムネを噛み砕きながら答える。 「父上が「もっと修行して強うならなあかん」て言うんや。父上は全然優しくない。母上も 頑張れって言うし」 「ほんでお婆ちゃんの所に来るんや」 「どうやら、私は天狗様の逃げ場になっているようですね」 祖母が言うと、匡政の顔色が変わりすぐに祖母から離れて千鼓の隣の石に腰掛けた。式神 は匡政の頭に飛び移る。 「婆を逃げ場にしとらへん」 以前、祖母から「私を逃げ場にするならここには来ません」と言われているため、匡政は 考えを巡らせてたった今思いついた理由を言った。 「わしは修行の息抜きついでにここに来てるだけや。千鼓も来いと言っとったしな」 匡政の腰に刺さっている央羽が言った。 「確かに本日は、お二人のお顔見たさに、ここにお越しになりました」 「そういうことや」 味方が増えた匡政は胸を張って言った。 「ご成長なされましたね」 祖母はにこやかに笑うと立ち上がって、また山菜を摘み始めた。 「あ、あたしも手伝わないと」 千鼓も祖母に続いて山菜を摘み始めたため、匡政も千鼓の隣で山菜を摘み始めた。 「わしも手伝うぞ」 だが、匡政は腕の痛みを感じて呻く。 「天狗様、大丈夫?」 千鼓は驚いて匡政の体を支えるが、今度は仰け反るようにして匡政は体の痛みを訴えた。 「千鼓、わしの体を掴むな。痛い」 千鼓は法衣の下のごわごわした感触に驚いて、匡政にそっと手を当てる。 「ごめん。天狗様、服の下、何?」 「痛い、そこは触らんといてくれ」 「わっ、うん」 千鼓は手を引っ込める。 匡政がまだ痛そうにしているので、腰の央羽が代わりに答えた。 「鬼熊に襲われた時に背中を強く打ったんじゃ。それに加えて、まだ無理な術までも使われ 身体にも負担がかかり、助けられた時にはかなり衰弱なさっておいでだった。薬師にあと二 週間は安静が必要だと言われておる」 「央羽、大げさに言うな」 匡政は口を尖らせる。 「慣れない事をしたんで全身が筋肉痛になってるだけや。薬師が毎日来てわしの体に膏薬を 貼っていく。それだけや。大した事ない」 祖母は山菜を摘みながらさり気無く聞いた。 「慣れない事とは、何をなさったのですか?」 「黒風を作った。小さいのをな」 「無茶をなさいますね。天狗様のお父上は黒風の事をご存知なのですか?」 「さあな。なんも言わんで分からん」 千鼓は祖母と匡政の会話についていくことが出来なくて聞く。 「黒風って何?」 匡政の頭の上で式神が答えた。 「砂塵を巻きあげて黒くなって吹く風の事である。暴風のため操るにはかなりの体力と神通 力を要する」 また千鼓が驚く。 「本当にこの式神の九官鳥はお利口さんやね」 「式神ではあるが九官鳥ではない」 式神は力んで言うものの、千鼓に首筋を撫ぜられて気持ち良さそうに目を閉じてしまう。 次に央羽が答える。 「匡政様は無理なのをご承知の上で黒風を作り操ったのです」 祖母は山菜を摘みながら言った。 「黒風は十歳を過ぎてから覚える術です。そんな小さいお体で黒風を作ったら風に巻き込ま れて手足が千切れてしまいます。天狗様、もう無茶をなさってはいけませんよ」 「うん」 匡政がしおらしく返事をしたのを見て千鼓は匡政を庇う。 「お婆ちゃん、天狗様にあまりきつい事言わんといて。かわいそうや」 「おやおや、今日は天狗様の肩をもつんだね」 「だってお婆ちゃん、天狗様が怪我したんは私のせいなんやもん」 「千鼓のせいやない。さっきわしが言うたやろ」 そう言った匡政の口に、千鼓はご機嫌取りのためにラムネを押し込んだ。 「もっと早くに帰っとったら鬼熊に会わんかったやん」 匡政はラムネを噛み砕きながら言う。 「そうやけどな……」 「なら、私のせいやん」 「一緒にしゃべっとったわしも悪い。そやで、悪いのは千鼓とわしで半分や」 匡政は絵本の中の子狐のような細い目で千鼓を見て微笑んだ。 「ほな半分ね」 千鼓も微笑むと自分の口にラムネを放り込んで、その後また匡政の口にもラムネを押し込んだ。 二人の様子を見ながら祖母は言う。 「お手伝いさんが遊んでいては今日の山菜摘みは捗らないわね」 「わー、ごめんなさい」 千鼓が急いで菓子箱をポケットに入れて山菜を摘み始めたのを見て、匡政は祖母と千鼓の 間にしゃがんで一緒に山菜を摘み始めた。 「今日はわしも手伝う。千鼓、早う摘んでそれからわしと遊ぼう」 「うん。でも暗くなる前に帰るからね」 千鼓は返事をすると念を押すように付け加えて言った。 これをきっかけに匡政と千鼓は仲良くなり、山菜を摘む日でなくても川原に来ては二人で 遊ぶようになった。 ← 1 (2) 3 ↑ |