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自作小説 秘 天狗追録・匡政の章

秘 天狗追録・匡政の章      [投稿者:二鷺 鳶一(にさぎ とびい)]                 (1) 2 3   


深山に棲息するという想像上の怪物。
人のかたちをし、顔赤く、鼻高く、翼があって神通力をもち、飛行自在で、羽団扇をもつという。(広辞苑)


人々はそれを天狗と呼び、ある者は恐れ、ある者は敬い神のように崇めた。





 道祖神が座る道をある順番で歩くと、結界が守る天狗の隠れ里に行く事が出来る。しかし、
それは容易な事ではない。なぜなら、道祖神の数と場所と歩く順番は、秘密とされているか
らだ。
 ある日ある時。
 鞍馬の山は今日も晴れていた。
 その麓で道祖神が座る道を歩く娘がいた。
 娘はトレッキングシューズを履き、リュックサックを背負い、ツバ広帽子を深々とかぶり
顔は見えないが、腰まである長い三つ網と、歩くたびに三つ網が当っている胸の膨らみを見
ると、それなりに成長した女性だろうか。
 娘はいくつかの道祖神が座る道を歩くと、今度は鞍馬山の山道に入った。一般の観光客と
一緒に山道を歩き、ある木を見つけると山道を外れて、道とは言いがたい草が伸びた所を歩
き始めた。
 奥は木々が覆い昼間でも薄暗い。均されていない地面はたまに滑り娘の足を横に流すが、
娘が履いているトレッキングシューズの底が、しっかりと地面を掴むため転ぶ事はない。娘
は目に入りそうになる汗を、首からぶら下がっているタオルで拭きながら、娘だけに見える
淡く光る道をただひたすらに歩いた。
 歩き続けて何時間経っただろうか。娘の鼻に白檀の香りが届いた時、汗で艶を帯びた頬と
口が、嬉しそうに吊り上った。
歩いてここに来たのは初めてだから心配だったけど、間 違えずに来れたわ」
 娘は一休みするために傍の木に手をついて、先にある格調高い木造の門を見た。歩きづめ
でとても疲れているだろうに、門を見る娘の表情はとても嬉しそうで、再び歩き出した足は
更に速度を早める。娘を運ぶ足はやがて石畳を踏み、トレッキングシューズは軽快な音を立
てて進む。石畳の次は石の階段。口からは荒い息が漏れていたが、娘は休むことなく石の階
段を一段ずつ踏みしめて上がって行く。
 最後の石の階段を登りきった時、娘は目の前で静かに建っている大きな門に向って大声で
叫んだ。
「我は、源宗一(みなもとのむねいち)が娘、月琴(つきこ)なり。直ちに門を開けませぇい」
 月琴の声は、門に当たり響き渡る。月琴の声で、鳥達は囀りをやめて、大きな門を見上げ
ている月琴を静かに眺めた。動物達が息を潜める静寂の中、門を見上げている月琴の頬に
心地良い冷たい風が撫でた時、どこからか二人の男の喉太い声が同時に聞えた。
「そなたが、源氏の血を引く娘ならば、確固たる源氏の証を見せぇい」
 月琴は、リュックサックから和紙の巻物を取り出した。
「我が身にあるのは源の血脈のみ。証など持ってはおりませぬ。証の代わりになるか判らぬ
が、愛宕山(あたごやま)から、我、月琴に宛てた文を持参した。とくと拝見致すがよい」
 次に強めの冷たい風が吹いた時、目の前に鴉の頭をした天狗が二人現れた。
 門の左右の扉の前に立つと、二人同時に言った。
「その文、謹んで受け賜わろう」
 手紙を持つ月琴の手に冷たい風がまとわりつく。月琴は驚いて一歩下がるが、天狗風だと
判ると手紙から手を放した。
 手紙は宙に浮き誰も触っていないのにひとりでに開く。だが、月琴が手紙と言って差し出
した和紙には何も書かれていない。それでも天狗は、読んでいるかのように首を和紙の右端
から左端へ動かした。
 右扉の前に立っている天狗が言った。
「確かにこの文は、天狗の隠し文字で月琴様について書かれておる」
 左扉の前に立っている天狗も言った。
「愛宕山大天狗様の呪印も施されておる」
 二人の天狗は顔を見合わせ同時に言う。
「間違いなくこのお方は月琴様」
 右の天狗が言った。
「何故(なにゆえ)、そのようなお姿でお越し頂いたのか」
 左の天狗が言った。
「何故、侍従無くお一人でお越し頂いたのか」
 月琴は、タオルで顔の汗を拭きながら答えた。
「鞍馬山がどんな所なのか自分の足で登ってみたかったのです。嫁ぎ先の事を知らない嫁
なんて変でしょ」
 月琴の言葉に、二人の天狗は嘴(くちばし)を広げ黒ずんだ舌を見せて笑い出した。一頻
り笑って呼吸を整えると背筋を伸ばした。
 右扉の天狗は、白い羽団扇を胸に当てて言った。
「我は、門の右扉を守る、烏天狗の右鳴(うみょう)と申す」
 左扉の天狗は、黒い羽団扇を胸に当てて言った。
「我は、門の左扉を守る、烏天狗の左鳴(さみょう)と申す」
 二人の烏天狗は声を揃えて言う。
「我々は、月琴様を心より歓迎致す」
 そして二人の烏天狗は、自分が守る門の扉を羽団扇で一回だけあおいだ。誰が触ったわけ
でもないのに扉は軋みながらゆっくりと開く。
「源月琴様。只今、ご到着なり」
神通力を使って声を上げたこともあり、二人の烏天狗の声は、月琴の体を振動させ、門を
越え先にある家屋と、その中で暮らす人々に届いた。

          ◇

「源氏の娘が来たか」
 白い法衣を着た山伏の姿をした男が筆の動きを止める。途中書きだったらしく、残りの文
字を筆を滑らせて書き終えると筆を硯に置いた。
「ご子息の奥方となられる方は、どのようなお人なのですか?」
 部屋には山伏姿の男が一人いるだけなのに、どこからか年老いた男の声がする。
 その声を聞いて、山伏は目尻にシワを数本よせて笑顔を作った。
「数年前に会った時は、娘は十二歳であったか。眉一つ動かさずに凛とした表情で、自分よ
り大柄な相手を素手で一撃のうちに倒しておった」
「頼子(よりこ)様に似ていらっしゃるのですか?」
「いや、わしの妻には似ておらん。妻より目は開いておる。眉は細い。それに頼子は薙刀だ
が、息子の嫁となる娘は空手を使う」
「空手ですか。鞍馬家始まって以来の武道ですな」
「今の人界は、いろいろな武道が横行しておるからな。他にもいろいろあるぞ。ぱそこんと
いう機械が筆そっくりの文字を書いたり、神通力を使わずに空を飛ぶからくりで空に文字を
書くことも出来る」
 山伏は、立ち上がった。
「そんな便利な環境がありながらも、自分から息子の嫁になりたいと名乗りを上げて、この
鞍馬山に嫁いで来たのだ」
「あの時は、わたくしもお会いしとうございました。まさか、羽の交換日と重なるとは本に
運の悪い……」
 山伏は、立て掛けてあった羽団扇を手に取った。羽団扇はオオタカの羽が円を描いて綺麗
に並んでいる。
「泰羽、そんなにしょ気るな。今回は前もって羽を交換し、綺麗に揃えたではないか。もう
すぐ会える。元気を出せ」
 山伏は、外の光にかざして羽の状態を確認すると、羽団扇を腰紐に挿した。
「ちゃんと会わせてやるから、緊張せずに挨拶をするんだぞ」
団扇の羽はヘソから左の位置でもたれるように傾く。
「挨拶は練習しましたが、源氏の姫を目の前にして、間違えずに言えるかどうか」
「心配なら黙っておれ。時間が経てば自然に話せるようになる」
 山伏は、天狗の面を手に取った。汚れがないか確認をすると、面を羽団扇の横、ちょうど
腰の真横の位置にぶら下げた。
 腰の横で揺れて動く真っ赤な顔、そこから伸びた長い鼻。その天狗の面の持ち主は、鞍馬
の里の現当主、鞍馬天狗定孝(さだたか)である。そしてもう一つの声の主は、定孝の長年の
相方、羽団扇の泰羽(たいは)だった。
「月琴様は、お綺麗でしょうか?」
「十二でそれなりに綺麗な顔立ちをしておったからのう。今はさぞかし美人に成長しておる
であろう。泰羽、お前好みの姫君だと、わしは思うぞ」
「それでは、益々緊張して口が利き辛くなりそうです」
 定孝は泰羽の焦った声を聞いて、肩と胸を揺らして笑う。
「泰羽の人見知りが治まるまで、息子の羽団扇と交換してやっても良いぞ」
「ひえぇ、それだけはお許し下さい。お熱い二人の元にいては、この泰羽の羽が湯だってし
まいます」
 泰羽は、声をひっくり返してイヤがった。

          ◇

 定孝と泰羽が住んでいる棟の北に妻頼子の部屋がある。その頼子の部屋に、先ほどまで月
琴が背負っていたリュックサックが置いてあった。月琴は到着後、頼子の部屋に招かれたの
だ。
 頼子の侍女は、月琴が履いていたトレッキングシューズを手にとって、珍しそうに眺めな
がら靴についた泥を落としている。
 そして月琴は今、湯殿にいて汗で濡れた服を脱いでいた。服を一枚一枚と脱ぐたびに三つ
網が月琴の周りで踊って揺れ、また腰の位置に戻ってくる。首から鎖骨にかけては汗が玉と
なってついている。月琴は裸になると三つ網を解きながら湯船につかった。
「もうすぐ私の身と心は神通力によって繋がり、全てあの方のものになるのね。ずっとお兄
様のようにお慕い申し上げている、あの方のものに」
 湯を肩にかけ、胸の膨らみに手を添えてクスリと笑う。
「お兄様じゃなかったわ。旦那様ね。早くこの呼び方にも慣れないと」
 手を伸ばし腕を撫ぜる。
「早く会いたいわ。今頃お兄様は、何をしているのかしら」
 遠くを見るような眼差しで水面の波を見ていたが、水面に映った自分の顔を見てまたクス
リと笑う。
「あらやだ、またお兄様と呼んでしまったわ」
 自分自身を嗜めるように湯を掬うと顔にかけた。

          ◇

 先ほどから何度も出てきた月琴の夫となるべき定孝の息子は、名を鞍馬天狗匡政(ただま
さ)という。相方の羽団扇の央羽(おうは)と共に、天狗の里に流れる渓流の小さな滝壺に、
禊(みそぎ)をするために来ていた。小さな滝壺ではあるが、場所によっては大人の足が届
かないほど深い。
 匡政は褌(ふんどし)姿で、声をあげて滝壺に飛び込んで泳いでいる。泳いで遊ぶ匡政に
禊ぎという概念は無い。
 匡政が脱ぎ捨てた白い法衣の間から、羽団扇の央羽が起き上がり、支えもなく立った。
「この声は、門番の月琴様ご到着の知らせ」
 風もないのに、央羽は独りでに羽の向きを変える。
「匡政様。月琴様がご到着されました」
 水面で泳いでいる匡政に声をかけるが聞えていないようで、匡政は両手で勢いをつけると
潜ってしまった。
「なんと、声が届かなかったか……。匡政様、お気付き下さりませ」
 央羽が飛び跳ねながら騒いでいると、すぐ近くの水面から匡政が飛び上がり、央羽の前に
着地した。
「そんなに騒ぐな。ちゃんと聞えておるわ」
 手拭いで体を拭く匡政に、央羽は言う。
「それならそうと、お返事をして頂かないと……」
「すまん。すまん」
 匡政は切れ長の瞳を細めて、央羽の慌て様を見て笑う。目尻を下げて笑う表情は、狐の顔
をマンガ風に描いた表情に似て、人が良さそうに見える。濡れた髪を拭いて手拭いを捻(ねじ)
って頭に巻くと、法衣を手に取った。
「匡政様、月琴様をお待たせしては、失礼になりますぞ。お早めのお支度を」
「そう急かすな、央羽」
 法衣の裾を整えると央羽を腰紐に挿した。続いて赤い天狗の面を隣にぶら下げる。
 央羽は水面に映った匡政の姿を見ながら注意を促した。
「匡政様。頭に鉢巻きが巻きついたままでございます。これから魚でもお売りになるおつも
りですか?」
「おっと、あかん。このまま帰ったら母上に叱られる」
 匡政は鉢巻きを頭から取ると絞って水滴を落とした。もう一度頭を拭く。匡政の頭髪は父
親譲りの硬めの毛質で、生まれついての逆毛。長さ十センチくらいの髪は、何もしなければ
勝手に髪が後ろへ流れるのである。前髪だけは、アーチを描いて左右に分かれて垂れ下がる。
一本歯下駄を履きながら手拭いを肩にかけると、手甲脚袢に手を通した。紐を片手で器用に
結わえ、片方の紐を歯で噛んで支えながら最後にきつく縛ると、黒い角頭巾を手に取った。
「まだ髪が乾いとらへんで、これは懐に入れておくか」
 匡政は、央羽を腰から抜いて手に取った。
「央羽、どうだ? もうええやろ」
 央羽は、匡政の顔と水面に映った姿を確認して答える。
「完璧ではございませぬが、良いかと思いまする」
「ほな、帰るで」
「おう」
 匡政は、羽団扇をあおいで天狗風を起こすと、黒い翼を広げ風に乗って空へ飛び上がった。
時折羽団扇をあおいで、方向や高さを調節しながら我が家へ向う。
 本日は晴天。空から見える家屋の瓦が光って眩しい。
 匡政は、自分の部屋の瓦を見つけると、その庭に降り立った。央羽を腰紐に挿して一本歯
下駄を脱ぐと座敷に上がった。畳の上で胡坐をかく。
「儀式の太鼓の音がせえへんな。早過ぎたやろか」
「約束の刻限には、ちと間がありますな」
 飛行時に受けた風でどのくらい髪が乾いたかと頭髪を触り乾き具合を確かめてから、懐か
ら角頭巾を取り出して頭に被せた。頭の後ろで紐を結ぶ。
「時間があるなら、央羽、団扇立てで少し休むか?」
「いえ、本日は特別な日。わたくしは匡政様のお腰で控えさせて頂きます」
 匡政は、組んでいた足を前に投げ出した。
「そうか。なら、わしは一眠りするわ」
 万歳をすると、そのまま畳に寝転んだ。
「匡政様。このような慶び多き日に、お昼寝はおやめ下さりませ」
 匡政からの返事が無い。
 央羽は、匡政の左腹の位置で羽を震わせながら大声で呼ぶ。
「匡政様、起きて下さりませ」
 やはり返事は無い。
「起きろぉ」
 大きく息を吸い込み巻き舌で叫んだ央羽に、やっと返ってきた返事は匡政の高鼾だった。
「とほほ……」
 央羽は、羽の力を抜いて匡政の腹の上でしょ気た。
 高鼾で寝ている匡政の部屋は、父親である定孝の部屋の東に位置していた。

          ◇

 匡政が言う儀式とは、月琴との婚礼の事である。
 婚礼の刻限が近づく今、北の部屋の月琴は何をしているのかというと、侍女に案内された
頼子の部屋で着物を着付けてもらっていた。婚礼だからといって現代の新婦が着る白無垢で
はない。着物は白いが、袴は赤。いわゆる神社の巫女の姿に、見事な金の透かし彫りの冠を、
額の髪の生え際に合わせて当てて、紐で括っているのである。
 頼子は正座をしながら月琴を見上げ、うっとりとした表情で溜息混じりに言った。
「なんと美しい。月ちゃんは、やっぱり源氏の姫君だわ」
「おばさま、照れるわ」
 月琴は、視線を下げて恥らう。
 頼子は、隣に置いてあった化粧道具の蓋を開けた。
「紅は何色がいいかしら。イブサンかしら。シャネルかしら」
 雅で古風な化粧箱から、現代的な口紅が次々と出てくる。
「お互い、小さい頃から顔は見慣れておりますので、何色でも構いませんわ」
「ダメよ、紅はちゃんと選んでささないと。ウチの匡君(ただくん)はアホなようでも、
見るところはちゃんと押さえて見てるんだから」
 匡君こと匡政は、今は口から涎を垂らし昼寝の真っ最中である。
「でも、お互いまだ十五歳ですし……」
「今の人界で十五歳は子供扱いだけど、昔は元服の歳だったの。今年十六になる匡君は、天
狗の里では既に大人扱い。本日の婚礼の儀なんて遅過ぎて、よその天狗の奥様方に恥かしく
て顔向けが出来ないほどなのよ」
「すいません……」
 謝る月琴の口に選んだ紅をさしながら頼子は言う。
「月ちゃんが謝ることないのよ。全てウチの匡君のせいなんだから」
 紅をさした月琴の顔を眺め、頼子はまたうっとりとした表情をする。
「紅をさすと、美しさに加え色っぽさもでるわね。もう一色さして立体感をだそうかしら」
 頼子はどこで覚えたのか、プロ顔負けの筆使いで丁寧に紅のラインを引き、艶出しのグロ
スを薄く唇に乗せた。
「これでいいわ。お神楽の方達に太鼓を鳴らすように、お願いしてきて」
 頼子の指示を聞き、一人の侍女が一礼をして部屋を出て行く。
「月ちゃん、我が家の扇揚殿(せんようでん)へ参りましょう」
「はい」
 頼子が立ち上がると、侍女達も立ち上がる。頼子を先頭にして、月琴と侍女達は、一列に
整列して部屋を出た。暫くして、婚礼の始まりを知らせる太鼓が鞍馬家に響き渡った。

          ◇

 その頃。
 定孝は男性専用の厠(かわや)にいた。
 厠とはトイレの事である。
 手洗い場の鏡を見ながら、電動髭剃り機で顎をマッサージするように髭を剃っている。そこ
に太鼓の音が聞えてきた。
 定孝の腰紐に刺さっている羽団扇の泰羽が揺れて動く。
「定孝様、始まりの合図です」
「分かっておる。これが済んだらすぐに行く」
 定孝は、顎の下の見落としやすい部分に再度髭剃り機を当てながら答えた。

          ◇

 太鼓の音は東の匡政の部屋にも届く。匡政は、自分の部屋で大の字になって高鼾をかいて
いる。そこに太鼓の音が聞えてきたが、匡政は気付かず鼾をかき続けていた。
「大変だ。婚礼が始まる合図だ」
 央羽は叫び疲れて匡政の腹の上でぐったりとしていたが、太鼓の音を聞いて火がついたよう
に叫んだ。
「匡政様、刻限です。起きて下さりませ」
「んが!?」
 やっと匡政の高鼾は止まった。匡政は目を少し開ける。
 央羽は、匡政の腹の上で騒ぐ。
「刻限です。婚礼の刻限になったのです。すぐに起きて下さりませ」
 央羽は、「起きて下さりませ」と何回叫んだであろうか。
 匡政は、寝とぼけながら人差し指で鼻をほじる。ほじって鼻詰りを治すとまた高鼾をかき
だした。
「起きぬかぁ。こらぁ」
 央羽が叫ぼうが、凄もうが、匡政は全く起きようとはしない。
「致し方ありませぬ。このような慶び多き日にしたくはございませんが、やむを得ません」
 央羽は神通力を使って団扇の端にある大切な自分の羽を裂いて、それを更に小さく千切っ
て匡政の鼻まで飛ばした。千切られた羽は匡政の鼻に吸い込まれていく。一回では匡政に変
化が表れないので、また羽を千切って飛ばした。
 同じ事を繰り返し五回目でやっと匡政の高鼾が止まった。匡政は口で息を吸い込むと、大
きなくしゃみをする。畳の上で匡政の体は跳ねて、その反動で起き上がり、起き上がってか
らも何度も大きなくしゃみをした。
「なんじゃ、鼻がえらくむず痒(がゆ)い」
「匡政様、刻限です」
 央羽は、やっと匡政を起こした。
「太鼓の音は聞えておるが、こうも鼻が痒いと……」
 匡政は体を大きく揺らして、またくしゃみをする。
「匡政様がなかなか起きて下さいませんので、命の次に大切なわたくしの羽を裂いて、匡政
様の鼻に入れさせて頂きました」
「だからか……」
 匡政は、鼻を擦りながらまたくしゃみをする。
「途中の手洗い場で鼻の中を洗うわ」
 立ち上がるとくしゃみをしながら部屋を出た。
 鞍馬家には、もう一人、西の部屋に住んでいる妹の早紀(さき)がいるが、この者の説明は
後の機会にするとしよう。

          ◇

 扇揚殿は定孝の棟の南に位置していた。畳は無く板張りの床で、鞍馬家の行事は全てここ
で行われる他、客間にもなっている。
 そして本日の婚礼の儀も、扇揚殿で執り行われようとしていた。
 部屋の奥に匡政と月琴が肩を並べて座り、手前では右の定孝と左の頼子と早紀が向き合っ
て座っている。定孝と匡政の羽団扇はそれぞれの右手近くの団扇立てに立てかけられていた。
「始めてくれ」
 定孝が言うと、四方を守る烏天狗の中心に新たにもう一人の烏天狗が現れた。中心の烏天
狗は羽団扇を高く掲げる。
「只今より婚礼の儀を執り行う。四方の烏天狗よ。結界を張れ」
 四方の烏天狗は返事をすると、羽団扇を掲げて結界を張った。すると、中央の烏天狗の羽
団扇が淡く光る。その烏天狗は言う。
「鞍馬天狗匡政よ。妻となる月琴に、夫としての意を示せ」
 匡政は、胡坐をかいて腕組みをしたまま動かない。
 月琴は隣の匡政を見て、我が夫としての意思を示してくれるのを待った。
 烏天狗は、光る羽団扇を高く掲げて匡政に見せながらもう一度言う。
「鞍馬天狗匡政よ。夫としての意を示せ」
 匡政は腕組みをしたまま、鼻からゆっくりと息を出すだけで動かない。
 定孝が見るに見かねて怒鳴った。
「匡政、早く示さぬか」
 父親の言葉で、匡政はやっと動いた。腕組みを解いて胡坐をしたまま後ろに両手をついた。
「なんで父上は、分かってくれへんのや」
 父上と呼ばれた定孝のこめかみに青筋が浮かぶ。厳かな場で姿勢を崩して座る行儀の悪い
匡政に腹を立てたのだ。
「お前の話は有りえんからじゃ。嘘をつくにも程がある」
 羽団扇の泰羽は神通力を使って床を滑るように央羽の元へ羽団扇立てごと移動する。泰羽
と央羽は羽を寄せ合って小声で囁く。
「また始まりそうですな」
「ですな」
 央羽は、泰羽と一緒に部屋の隅へゆっくりと移動した。

          ◇

 門番の右鳴と左鳴は、屋敷を覆うただならぬ神通力を感じて辺りを見回した。
「右鳴、大変じゃ。上を見よ」
 左鳴に言われ、右鳴が上を見ると、暗雲が現れ屋敷を覆っている。
「定孝様がお怒りだな。暫く空が荒れそうですね」
 暗雲は光を発すると低い音を空に轟かせ始めた。

          ◇

 匡政の切れ長の眼はしっかりと父親である定孝を睨んでいた。
「父上には有りえないかもしれへんが、わしには有りえるんや」
「天狗になりたての若造が何を言う。良いか、天狗にとって婚礼の儀とは、このように四方
に結界を張り、中央の依代に鞍馬寺におわす毘沙門天様の気を光臨させてお力をお借りしな
ければ、正式な夫婦になるための神通力が発動せんのだ。それをどこの馬の骨とも分からぬ
娘に、毘沙門天様の気無き場で夫としての意を示したなど、誰が信じるものか」
 定孝が啖呵を切った直後に、空を切り裂くほど恐ろしい雷鳴が響いた。稲妻は屋敷の近く
にあった大木を真二つに割り、割れた半分は屋敷の塀に傾き倒れる。そこをお庭番の烏天狗
が飛んで来て、羽団扇で天狗風を起こし寸でのところで割れた木を別の方角へ飛ばした。
「今の雷は凄かったな」
 烏天狗は塀に降り立つと、自分の顔を羽団扇であおいだ。
 頼子と早紀はお互いに肩を寄せ合い、雷鳴が壁を振動させるたびに首を竦めている。
 月琴は平気なようで、握り締めた拳を胡坐の上に乗せている定孝と、後ろで手をついて足
を前に投げ出して座っている匡政を交互に見ている。
 父定孝の言い分はもっともで、天狗の仕来りに背いて他の娘と勝手に婚儀を行った匡政に
は分が悪かった。
 しかし、匡政に態度を改める様子は無い。反省の色も無く、間を持て余しているのか足の
指を動かしながら言う。
「まあええ。ちょうど毘沙門天様の気も降りとる。先に月琴が妻としての意をわしに示して
みたらどうやろ」
 鞍馬家恒例の父と息子の親子喧嘩が始まると思っていた央羽と泰羽は、いつもと違う展開
を黙って眺めた。
 定孝は、匡政の馬鹿さ加減に腸を煮え繰り返らせながら言った。
「婚礼の儀式を新婦からさせるとはなんということだ」
「六年前は、新婦から先やったんや。説明中にいきなりしてきて、避けられへんかったんや」
「六年前ということは……」
 月琴は、指折り数える。
「九歳に婚儀を……」
「いや、誕生日後だったで十歳や。月琴には話したやろ」
 月琴は約十年前の匡政が笑顔で婚儀の話をした事を思い出し、伸ばしていた指を握り込ん
だ。
「聞いた覚えはありますけど、いつもの冗談だとばかり……」
 定孝は鼻で笑い飛ばす。
「子供の時の戯れ事が、天狗の婚儀として罷り通るものか」
「そうですよね」
 月琴の表情に笑みが戻る。
「毘沙門天様が、遊び半分の婚儀を、お認めになるはずがありませんものね。いいですわ。
私が先に妻としての意を示します」
 月琴は匡政へ体の向きを変えると、正座のまま床に両手をついて、静かに移動しながら匡
政に近づいた。
「匡政様、こちらを向いて下さい」
 匡政の肩に手を置き、月琴は自分のほうに顔が向くように匡政の顎に手を添えて引いた。
 匡政は月琴のするままに顔を向ける。化粧をした月琴の顔を見るのは初めてらしく、美し
い月琴と目が合い頬を赤らめる。次に近づいてくる唇を見て、紅の入った唇の色っぽさに
生唾を飲み込んだ。
「顔に仰山塗って、月琴も一応女なんやな」
「お兄様、黙ってて」
 湯殿での決心はどこへやら。もうお兄様言葉が戻っている。月琴は瞳を閉じると、匡政の
鼻に口付けをした。
 定孝と頼子と早紀は、首を伸ばして儀式を確認する。
 泰羽と央羽は、羽を傾けて儀式を覗く。
 月琴は口を離すと、目を開けて匡政の鼻を見た。事の状態が信じられないらしく、無意識
に首を横に振る。
「なんで鼻が光らないのよ」
 匡政の鼻についているキスマークを見ながら言う。
「位置がズレていたのかしら」
 月琴はもう一度匡政の鼻に口付けをしたが、それでも匡政の鼻は光らない。
「ほれみぃ。わしの言う通り光らんやろ」
「そんなはずないわ」
 月琴は、中央の烏天狗が持っている羽団扇の毘沙門天の気の光を見ながら言った。
「だって毘沙門天様の気が降りているんですもの。相手の鼻に私が妻だという印をつければ
鼻は光るはず」
「先に妻がおれば、鼻は光らんちゅうに」
 匡政の言葉に、月琴は涙ぐんだ。
「いやよ。私は生まれた時からお兄様の妻なのよ。私より先に妻がいる訳がないじゃない」
 月琴は正座した膝を、匡政の胡坐にくっつけて言う。
「きっと儀式の順番が違うから光らなかったのですわ。やはり仕来り通り夫となるお兄様か
らして下さいませ」
 匡政は、鼻頭に口紅をつけたまま言う。
「別にしてもええが、月琴の鼻が光らなくても泣くなよ」
 定孝は、匡政を睨んで言う。
「つべこべ言わず、さっさとせんか」
「うるせぇな」
 匡政が床から手を離し、体を月琴へ傾けて顔を近づけると、月琴は静かに瞳を閉じた。月
琴のシミ一つ無い肌の白さに少し緊張しながら、匡政は月琴の鼻に唇をそっと乗せた。そし
て、すぐに顔を離す。
「どうや。わしがしても月琴の鼻は光らんやろ」
 月琴は目を寄せて光らない自分の鼻を見て座り込んでいたが、急に首を横に振って冠の金
の飾りを揺らしながら言った。
「いいえ。私は生まれた時から天狗の家に嫁ぐために育てられた、お兄様の妻なの」
 月琴は、匡政の襟首を両手で掴んだ。
「そして、お兄様は私の夫」
 今にも喧嘩しそうな二人の状態を止めようとして、定孝は腰が少し浮き上がる。
 匡政は月琴の腕を掴んで、指を解こうとする。
「綺麗な新婦の姿をしていても、やっぱりいつもの勇ましい月琴やな」
 匡政が笑顔で言った言葉を聞いて、月琴の瞳から一筋の涙が流れた。
 しおらしく頬を流れる月琴の無言の涙は、匡政を焦らせる。
「いつもの月琴や、と言っただけやろうが。なんで泣くんや」
 月琴は涙目で匡政を見ていたが、いきなり匡政を押し倒した。
「私がお兄様の妻なのよ。何がなんでもお兄様の鼻を光らせるわ」
「月琴、やめろ」
 匡政が止めるのを聞かず、月琴は匡政の鼻に口を押し付けた。足をバタつかせ押し返そう
とする匡政を床に押し付けて、月琴は何度も匡政の鼻に口付けをする。
「光る場所が、どこかに残ってるかもしれないわ」
「落ち着け。っていうか……、ちゅぅをしまくるなぁー」
 匡政は顔を背け逃げるために暴れるが、月琴は匡政を押さえつけて放さず、そのうちに月
琴の唇がズレて匡政の唇と重なって、匡政は物が言えない状態になる。塞がれた口をなんと
かしようと動くが悪循環で、月琴の口は更にズレて匡政の鼻の穴をも塞いだために、匡政は
呼吸が出来なくなり意識が朦朧としだし、月琴は匡政が無抵抗になったのをいいことに、鼻
の光る場所を探してまだキスを続けている。そして、酸欠になった匡政の手が力を無くして
床に落ちた。
 匡政が三途の川を渡る前に月琴を引き剥がしたのは、父親の定孝だった。
「月琴。気持ちは分かるが、匡政を殺しては何もならんぞ」
 腕を掴んだ定孝を見て、冷静さを取り戻した月琴は顔を両手で覆って泣き出した。
「どうして私じゃないの。こんなにもお兄様が好きなのに。誰よりもお兄様を見てきて、誰
よりもお兄様を思っているのに……」
「すまぬ、月琴よ」
 謝る定孝の声を聞いて、月琴の泣き声は扇揚殿に響き渡った。
 頼子と早紀は月琴を挟むようにして一緒に座り、慰めるために月琴の肩を支える。
 鼻と口の周りに紅をつけた顔で、匡政は起き上がった。
「なんちゅうお転婆や」
 定孝は、ゲンコツで匡政の頭をこついた。
「この馬鹿息子。月琴になんて事を言うんじゃ」
「いってぇなぁ」
 匡政は顔の紅を消す事より、こつかれた頭を撫でる。
 月琴は、早紀から渡されたハンカチで涙を拭きながら言った。
「私、お転婆を直すから。お兄様好みの女性になるから、お願いだから妻にして」
 涙で濡れた月琴の顔を見て匡政は答える。
「あかん。わしは、愛の無い結婚は出来ん」
「私には愛があるわ。私がお兄様好みの女性になれば、お兄様だってきっと私に対して愛が
生まれるわ」
 匡政は、座り直して胸の前で腕組みをして言う。
「わしの心にいる女は千鼓(ちづ)だけじゃ。千鼓以外の妻は娶らん」
「どうしても、私をお兄様の妻にして頂けないのですか?」
「あかんもんは、あかんのや」
 匡政の返事を聞くと、月琴はハンカチを握り締めて立ち上がった。
 頼子は心配そうな表情で見上げる。
「月ちゃん……」
 月琴は嫉妬と怒りで全身を震わせている。
「月琴姉さま」
 呼び止める頼子と早紀の声を無視して、月琴はクルリと体の向きを変えると扇揚殿を小走
りで出て行ってしまった。
 月琴が外に出た事により結界は解け、中央の烏天狗の羽団扇は光を失った。
 定孝は仕方なく、手で合図をして婚儀の終わりを烏天狗に知らせる。
 烏天狗は無言で会釈をすると、扇揚殿を出て行った。
 月琴の足音が聞えなくなり、扇揚殿に重い空気となって静けさが戻る。
 その静けさを割るように、匡政は言った。
「だから、わしは婚儀はせんと言うたんや」
 立ち上がり法衣のズレを直す。
「あの分からず屋のお陰で、えらい目におうたわ」
 定孝は、片手で匡政の襟首を鷲掴みにした。
「分からず屋は、お前のほうじゃ。先祖代々受け継がれてきた天狗の婚儀をなんだと思って
おるのじゃ。この罰当たりが」
 匡政は、定孝の太い腕を掴んで抵抗しながら言う。
「前もって父上にも、婚儀は済ませたと言うたやないか」
 扇揚殿の部屋の隅で事の有り様を見ていた羽団扇の央羽は、泰羽に小声で言った。
「今度こそ始まりますかな」
「いや。小康状態で、既に始まっておるのでは」
 泰羽の答えに、央羽は羽の力を抜いて言う。
「なんと! それでは我々はこのままという事に……」
「このままのようですな」
 泰羽は、悲しそうに言った。

          ◇

 右鳴と左鳴は、雨にうたれながら門の屋根の上に立っていた。
「雷がやんでも雨がやまないのは、定孝様のお怒りは、まだ続いているということでしょう
か」
 右鳴の言葉に、左鳴は頷き口を開く。
「これでは、まだ気が抜けんな。お庭番も翼が休めれず気の毒に」
 お庭番の烏天狗達も、屋根の上で雨にうたれながら雨雲を見上げ、いつ落ちるか判らない
雷を警戒していた。

          ◇

 定孝と匡政の掴み合いは、まだ続いている。
「今日こそは、その腐った性根を叩き直してやる」
 匡政は、顔に月琴の口型の紅をつけたまま父定孝に言い返す。
「叩きたければ叩け。鞍馬の息子は痣つきの顔で入学式に出たと知れ渡るわ」
 定孝は、匡政の襟を捻り上げ、
「お前という奴は、お前という奴は……。くそっ。人界の入学式がなければ、即刻叩きのめ
してやるものを」
 匡政から手を放し、悔しそうに腕を振り下ろした。
 匡政が乱れた法衣の襟を直していると、床を走る音が聞えてくる。
 誰の足音かと思い、定孝は鞍馬家の頭数を確認する。妻の頼子、娘の早紀、バカ息子の匡
政、そして自分。頭数は揃っている。もしや月琴か、と思った時、襷掛けをして薙刀を持っ
た月琴が扇揚殿に入ってきた。
「ほかの女にお兄様を取られるくらいなら、お兄様を殺して、私も死にます」
「それは頼子の薙刀……」
 命を狙われているのは息子の方なのに、なぜか父の定孝の顔が一気に青ざめ、薙刀を見な
がら一歩、二歩と後退りをする。
 息子の匡政はというと、要領よく定孝の後ろに隠れ、紅のついた顔を定孝の肩から出して、
父親と一緒に後退りする。
「月琴、落ち着け。話せば分かる」
「お兄様、お覚悟を」
 羽団扇の泰羽と央羽は、お互いの主人である定孝と匡政の親子喧嘩の新しい展開に目を見
張る。
「凄い事になってきましたな」
 央羽の言葉を聞いて、泰羽は注意を促す。
「巻き込まれないように、もう少し距離をとったほうが良さそうですぞ」
 二つの羽団扇は壁に沿って静かに滑りながら、団扇立てごと移動し始めた。

          ◇

 門番の右鳴と左鳴は、門の屋根の上で急に雨がやんだ空を見上げていた。
 右鳴は、首を傾げて言った。
「このやみ方は、頼子様ご出陣だろうか」
「定孝様のお怒りを止められるのは、頼子様しかおらぬゆえ、きっとそうであろう」
 左鳴は体を震って、羽についた雫を飛ばしながら答えた。
 右鳴と左鳴は、この雨を止めたのが先ほど門を通った源氏の娘だとは思ってもいないよう
だ。

          ◇

 匡政に盾にされ、月琴に薙刀の刃を突きつけられ、定孝の全身に汗が噴き出す。そんな事
はお構いなしに匡政は父である定孝に言う。
「父上の神通力で、月琴をなんとかしてくれ」
「無理や。わしは頼子の薙刀にはトラウマがあって勝てん」
 定孝は、関西弁が出てしまうほど取り乱している。
「全ては、私の思いが分からない、お兄様が悪いのです」
 月琴が薙刀を振り上げると、定孝と匡政は一緒になって逃げ出す。
「そんな恐ろしい思いなど、分かりたくもないわ」
「わしを間に挟むな。喧嘩は二人だけでやってくれ」
 月琴が薙刀を振り下ろすと、定孝と匡政は一緒になって避ける。
「お兄様を庇い立てするならば、お父様といえど容赦は致しません」
「バカ息子を庇うつもりはない。匡政がわしから離れんのじゃ」
 月琴が薙刀で足元をすくうと、定孝と匡政は一緒になって飛び跳ねる。
「お兄様、私と一緒に死んで下さいませ」
「イヤじゃ。千鼓と甘い高校生活をエンジョイせぬうちは、死んでも死にきれん」
「天狗がエンジョイなどという横文字を口にするな」
 定孝と匡政は一緒になって逃げ回り、三々九度の時に使われるはずだった徳利とお猪口を
蹴飛ばした。徳利の中から酒が流れ出す。
 月琴も足元に転がる徳利とお猪口を蹴飛ばしながら、定孝と匡政を追いかけた。
 その蹴飛ばされた徳利が、事の有様を見ていた泰羽と央羽に向って飛んでいく。
 央羽は、その徳利にすぐに気がついて、羽に力を込めて念じる。
「臨兵闘者皆陣列在前」
 徳利は酒がこぼれないように口を上にした状態で、央羽の目の前で停止した。
 次に飛んできたお猪口を、同じように念じて泰羽が目の前で停止させる。
 央羽は、徳利の口の中を覗いて言った。
「酒は思っていたより残っておりますぞ。ささ泰羽殿、一献」
 泰羽は、浮かしたお猪口で酒を受けながら嬉しそうな声を出す。
「いつもながら、央羽殿の神通力は誠にお見事ですな」
 央羽も酒を注ぎながら嬉しそうに言う。
「いや、泰羽殿に比べれば、わたくしなどまだまだ」
 泰羽と央羽は、徳利とお猪口が飛んできて危険な目にあったにも関わらず、急に機嫌が良
くなった。
 団扇の羽留めから現れた口を伸ばして、泰羽は酒を啜った。
 央羽は、酒を飲み込み黙り込んだ泰羽を覗き込む。
 泰羽は、お猪口に残っていた酒を一気に飲干して言った。
「うまい。やはり婚礼の酒は上級酒を使っておる」
「おお、そうですか」
 泰羽は央羽が浮かしている徳利を動かして、浮いているお猪口に酒を注いだ。
「ささ、央羽殿も一献飲んで下され」
 央羽も団扇の羽留めに口を現して、注がれた酒を口に含む。
「うお、誠に上級の酒を使っておりますな。諦めず待った甲斐がありましたな」
 泰羽と央羽は、嬉しそうに酒を酌み交わした。

          ◇

 右鳴と左鳴は、時折り体を震って羽についている雨の雫を飛ばしながら、門の屋根の上で
じっと立っていた。
 右鳴は空の雨雲を見上げて言う。
「まだ晴れん。今回の喧嘩は、かなり長引いていますね」
 左鳴は、屋根の上にいるお庭番達を見ながら言う。
「あまり長引くとまずいぞ。お庭番達の神通力も限界に近づいてきておる」
「頼子様がご出陣されたのであれば、もうそろそろ晴れ間が見えてもよいのですが」
「今、定孝様と頼子様は言い合いをしておるのではないか」
 右鳴は嘴を動かして羽繕いをしながら言う。
「なるほど……」
「ここからでは見えぬゆえ、本当の事は判らんが……」
 左鳴も疲れているらしく、片足を羽の中にしまい、もう片方の足で立ちながら言った。

          ◇

 月琴は肩で息を切らし、薙刀を床につけて寄りかかり、匡政を睨んでいた。
 定孝と匡政も息を切らして、よろめきそうな体をなんとか支えて立っている。
「わしはこれ以上は動けぬ。頼むから喧嘩は二人だけでやってくれ」
 今の定孝に怒る気力も、二人の喧嘩を止める体力も残ってはいない。その場に座り込み、
 近くにあった徳利の酒を口に含み、喉の渇きを癒す。
 匡政は、口から息を吐きながら言った。
「月琴、わしの事は忘れてくれ」
「イヤでございます」
 即答で月琴は返す。
 匡政も座り込んだ。
「あかん、疲れてもう動けん」
「物心ついた時からお兄様をお慕いしてきたこの思い、忘れることなど出来ません」
 月琴も薙刀に寄りかかりながら、その場に正座した。
 頼子は、静かに近づいて月琴が掴んでいる薙刀に手をかけた。
「源氏の者として申し分ない、見事な太刀筋でした」
「おば様……」
「月ちゃん、そろそろ私の薙刀を返してくれるかしら」
 月琴は、薙刀から手を放すとまた泣き出した。
 早紀は侍女を呼んで、散乱している徳利やお猪口を片付けるように、指示を出した。

          ◇

 羽団扇の泰羽と央羽は、その後増えた徳利に囲まれ、上機嫌になっていた。
 床に転がっているお猪口を神通力で動かして遊びながら、央羽は徳利を咥えて酒を飲んで
いる。
「このような厳かな儀式だと、酒の肴になるものが無くて残念ですな」
 酔って話す央羽の舌は呂律が回っておらず、何を話しているのか聞きづらい。
 だが、泰羽はちゃんと聞きとって、同じく呂律が回らない舌を動かして答える。
「全くですな。せめて塩か味噌があればよいものを」
 泰羽も徳利を咥えてラッパ飲みをする。
 その飲んでいる泰羽を、央羽は呼びかけた。
「泰羽殿」
「なんじゃ?」
 答えてからまた徳利を咥える泰羽を、央羽はもう一度呼ぶ。
「泰羽殿」
「だからどうしたのじゃ。遠慮せず言えばよいであろう」
 徳利を下ろした泰羽は驚いた。侍女が恐ろしい表情をして見ていたからである。
「またお酒を盗み飲みですか?」
 泰羽と央羽に、侍女の影がかかる。
「いや……」
「その……、申し訳ない」
 泰羽と央羽は一気に酔いが冷め、目の前の徳利を片付ける侍女に、神通力で浮かしていた
徳利を差し出した。

          ◇

 右鳴は、乾き始めた羽を嘴で手入れしながら言った。
「風もやんで静かなのに、まだ晴れ間が見えてきませんね」
 左鳴は片足で立ってうたた寝をしていたが、右鳴の声で目を開けて空を見上げた。
「もしやこの雨雲、定孝様同様に動きたくとも動けぬのではないか」
「なんと!」
「ここからは見えぬゆえ、本当の事は判らぬが……」

          ◇

 月琴は、扇揚殿の床に伏せって泣き続けていた。
 生まれてから十五年、匡政を思い続けて泣く月琴の涙はそう簡単に枯れることはなく、流
石の匡政も月琴がかわいそうになってきた。
「月琴、そう泣くな」
 声をかけるが、十五年しか生きていない匡政の不器用な慰めは月琴に届かない。
 頼子と早紀は、かわいそうな月琴の姿を見て涙ぐむ。
 定孝は胡坐をして瞳を閉じて考え込んでいた。
 月琴は人界で育ったにも関わらず、天狗の仕来りをよく知り、イヤな顔一つせず天狗の仕
来り通りに動き、匡政に対しても小さい頃よりよく尽くしてきた。
 匡政はというと、天狗の里で天狗として育ったにも関わらず、天狗の仕来りには無頓着で、
修行時代も飛行の術も覚えが悪く、昔の元服と同じ十五歳で天狗になれたのが不思議なくら
い。
 定孝は目を開けると匡政を見た。匡政が足を投げ出して疲れた顔をして座っているのを見
て、男として胡坐すらしていない情け無い姿に溜息をつく。本人の幸せのために月琴は匡政
の妻にならないほうが良いとさえ思えてくる。定孝は自分自身の決心のために、もう一度月
琴に聞いた。
「月琴、そのままでよいから、わしの話を聞いてくれ」
 月琴は、泣き腫らした顔を上げる。
「いつも天狗の仕来りに従わず反抗的な匡政が、もし毘沙門天様の怒りに触れ、醜い姿に変
えられたなら、月琴はどうする?」
 月琴は迷わず即答する。
「私も同じ姿にしてもらい、ずっとお兄様と共に暮します」
「匡政の体が、鼻が曲がるほど臭く近づくことが出来なかったら、どうする?」
「鼻など使いません。鼻を使わなくても、私は生きていけます」
「最後に聞く。もし匡政が、側室なら月琴を鞍馬山に迎えてもよいと言ったら、どうす
る?」
「私を正室ではなく側室に……」
 月琴の表情が凍りついた。
 これには匡政が怒った。
「父上、わしは側室など娶らんぞ」
 定孝は、手の甲を見せて匡政を制止する。
「今は月琴に聞いておる。お前は黙っておれ」
 匡政は膝を曲げると、両方の足の裏をくっつけて座り直し、足の指を握ってふて腐れた。
 月琴は感情が先に立ってしまい、泣き声が出そうになって口を噤む。
「私は……」
 唇を震わせながら呼吸を整えると、今から言う答えが泣き声にならないように、自分の胸
を押えながら答えた。
「それでも私は、お兄様のお傍にいとうございます」
 やっとのことで言い終えると、月琴はまた泣き出した。
「本当にお兄様が好きなのです。好きだから天狗の仕来りを覚え、お兄様の好みを覚え、お
兄様と同じ高校へ行くために勉強してきたのです」
 月琴の思いを聞き定孝は何度も頷くが、匡政はイヤそうに口を開いた。
「月琴の思いは、わしには重過ぎるんや」
「だったら私、お兄様が好きだとは二度と言いません。態度にも出しません」
「ちゃうんや。月琴は、昔から父上と母上と同じなんや。妹の早紀と同じなんや。天狗の世
界で生き、わしに天狗を求める。わしは天狗の落ちこぼれや。落ちこぼれに月琴の思いは本
当(ほんま)に重過ぎるんや」
「お兄様が人界で暮したいとおっしゃるなら、私も人界で暮します。人界の妻同様アルバイ
トでもパートでもなんでも致します」
「ちゃうんや。天狗の世界で一緒に育った月琴は家族と同じなんや。家族同様のお前を妻と
しては見れんのじゃ」
 月琴は泣きじゃくる。
「お願いです。側室でも侍女でも、お兄様の目の届く所に私を置いて下さいませ」
「そんなんで、お前が幸せになれる訳ないやろ」
 この言葉には定孝も内心同意する。
「月琴、なんでいっつも強情なんや」
 しかし、この匡政の言葉を聞くと定孝は怒りを覚え立ち上がった。
「強情なのは、お前のほうじゃ」
 匡政の襟を掴んで逃げられないようにして、ゲンコツでこつく。
「我を張り何度も天狗の仕来りに逆らいおって、月琴にものが言える立場か」
「父上、痛い」
「月琴の心の痛みに比べれば、空っぽのお前の頭など、大した痛みではないわ」
 定孝は、匡政の襟を掴みながらもう片方の手を上げた。
「泰羽、我が手に」
 羽団扇の泰羽は酔い潰れて同じ羽団扇の央羽と羽を寄せ合って眠っていた。名を呼ばれ
、うとうととしながら羽を揺らす。
 定孝は床を踏み鳴らし、もう一度呼んだ。
「泰羽、来い」
「はっ、只今」
 次の声を聞き泰羽は目を覚ますと、神通力で飛び上がり定孝の手に乗った。
 定孝は、泰羽に鼻を近づけて聞く。
「羽が酒臭いが、一仕事こなせるか?」
「こなせますとも。少々の酒では、この泰羽、酔いませぬ」
「うむ」
 定孝は、羽団扇を構えた。
「千鼓とかいう娘は、お前が天狗と知って、天狗の力を利用するために近づいたのじゃ」
「千鼓はそんな女じゃない。父上もよく知ってる清婆(きよばあ)の孫やで」
 清婆と聞いて定孝の顔色が変わるが、すぐ真顔に戻る。
「孫だからといって、清婆と同じに育つとは限らん。でなければ、なんの取り得も無いお前
が好かれるはずがなかろう」
 定孝に襟を掴まれて、匡政は座ったまま暴れて抵抗する。
「イヤじゃ。わしは絶対に月琴を妻にせんからな」
 定孝は笑う。
「人界で育った千鼓の本性を見て、お前は同じ言葉が言えるのかな。天狗の妻になるために
育てられた月琴とは訳が違うのじゃぞ」
 匡政は座ったまま抵抗して襟を掴んでいる定孝の手を掴んで見上げる。
「千鼓に会ったこともないくせに、なぜ千鼓の本性が分かるんじゃ」
「人の醜い感情など、会わずとも分かるわ」
「なんで人界のもんを悪く言うんや。天狗だって天狗道に落ちとるやないか」
「人間道と天狗道は違う。生きる道が違うからこそ、その辺の娘を嫁に出来んと言うておる
のが分からんのか」
 やはり天狗の仕来りに逆らう匡政には分が悪く、父親の言い分を言い返せるほどの人生経
験も無く、二の句がつけなくなった匡政は奥歯を噛み締める。こうなったら自分の思いを遂
げるために、障害になる父親を打破するしかない。匡政は最後の切り札に手を伸ばした。
「くっそぉ。央羽、起きろ」
 羽団扇の央羽は、主人の匡政に呼ばれたが、酔い潰れて夢の中にいた。
 匡政は、床を叩いて呼ぶ。
「央羽、起きろ。わしは今から父上と戦う」
 腹いっぱいに酒を飲んだ央羽は、団扇立てに身を委ねて熟睡している。
「央羽も主人に似て、よく寝るのう。匡政よ」
 定孝が泰羽で一あおぎすると、央羽は眠ったまま浮いて、匡政の手に乗る。
「央羽、起きるんや」
「匡政様、起きて下さりませ。……ムニャ」
「お前が起きなあかんやろ」
 匡政が団扇の羽を揺さぶっても、央羽は夢を見続けていた。
 バカ息子といえど我が子は可愛いもの。定孝は息子に罰を与えるか躊躇っていたが、羽団
扇すら満足に扱えない息子の姿を見てついに決心をした。
「わしと戦うと聞いて待っておったが、自分の羽団扇すら扱えぬとは情け無い……」
 定孝は、羽団扇を何度もあおいで呪文を唱えた。
 匡政も羽団扇をあおいで抵抗するが、眠っている央羽を使っても大した神通力は出せず、
匡政は定孝の神通力によって扇揚殿の外へ放り出された。地面に落ちる前に空から降りてき
た光に包まれて昇っていく。
 定孝は、カエルの死骸のような不様な恰好で回転しながら雲の割れ目の中へ吸い込まれて
行く匡政を見上げた。
「改心するまで戻って来るな!」
「央羽、すまぬ。定孝様が力いっぱいあおぐで今回は手加減できんかった」
 羽団扇の泰羽もまだ眠っているだろう央羽を見送った。
「あなた」
 頼子は薙刀を片手に定孝の横に来て、空へ昇っていく匡政を見上げた。
「わしのした事を怒っておるのか?」
「いいえ、ただ……」
「ただ、なんじゃ?」
「匡君に有名デパートのお買い物を頼みたかったものですから……。今日は特大バーゲン日
なので」
「……そうか」
 定孝は、頼子を刺激しない程度に言葉を留めた。

          ◇

 門番の右鳴と左鳴の羽は乾き始めていた。
 突然、暗雲の中から光りの柱が降りて、匡政が運ばれて行く様を見て、右鳴が言った。
「今回は高く飛ばされたな。どこまで飛んで行くんだ……」
「今までの中で、一番の勢いではないか」
 左鳴も光りの柱を見ながら言った。

          ◇

 月琴は泣きやみはしたものの、早紀に支えられながら、遠くへ飛ばされた匡政を悲しげに
見上げていた。小学生の頃、匡政から数回聞いただけの千鼓という名前が、月琴の心の中で
は大きな存在になっていた。匡政の相手は自分だけだと思っていたのに、別の場所で二人の
仲が始まっていたのかと思うと無性に悔しかった。そして定孝が顔色を変えた、千鼓の祖母
であるという清婆が誰なのか気になっていた。
「あの、清婆とは、どなたなのですか?」
 定孝と頼子は振り返った。頼子も知っているらしく悲しい表情になる。
「清婆こと清様は、愛宕山の大天狗様が若かった頃の思い人です。大天狗様は定められた妻
より人界で暮らしていた清様を選んだのですが、清様は天狗には定められた妻がいると知っ
てどこかに姿を隠されてしまい、大天狗様は清様を求め方々を探し回ったと聞いています」
「それで大天狗様と清様は?」
「会うことはなく、別々の道を歩んだと聞いています」
 定孝は羽団扇を持ったまま腕を組んだ。
「まさかこっちにいたとはな。だが、なんで匡政が知っているんだ」
 頼子は、薙刀を自分の肩に立てかける。
「当時、人界の女に現を抜かした天狗がいては愛宕山存亡の危機に関わるとかなり噂になり、
今でも有名な話ではないですか。匡君もどこかで聞いたのでしょう」
「だが、清婆の顔までは知らんだろ」
 そう言いながら定孝は、目の前で動く頼子の薙刀を気にして怯える。
「そういえばそうですね。どうして清様だと気付いたのかしら……」
 定孝と頼子、月琴と早紀は、不思議に思い顔を見合わせた。

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